07. vs 幸江
「さっちえー!」
帰宅したリヴリーをムシクイが迎える、というのはよく聞く話だが
ここ、幸江の家では逆であった。
芝という名のムシクイはまだ遊び盛りの十歳児で
広いといっても限度のある島の中に押し込めておくというのは
どだい無理な話なのであろう。
赤い光沢のある靴をもどかしげに脱ぎ捨て、
そのくせ律儀に揃えてから走り寄ってくる様子は
実に子供らしく微笑ましい。
「聞いておくれよ!林家りぶ平が落語界に復帰したんだって!」
幸江がおかえりを言うのも待たず、芝は甲高く叫ぶと
長い髪の毛をゆらゆらさせて彼を見上げた。
「おじょうがリヴリータイムズの切れ端を見せてくれてさ、
たまげたの何のって…ライブもやるんだって。もう、幸せだよ!」
目を輝かせて話す。
年に似合わぬ趣味ではあるが、芝は落語が大好きだ。
幸江は一瞬驚いた顔を見せ、それからふわりと微笑み、
「それは良かったね。」
と、愛情を込めて芝の手を外してから、彼女を食卓へと連れてゆく。
もちろん芝はそんな幸江に構わず
りぶ平が活動を休止したとき、どんなに自分が悲しかったか、
CDを聞くたびにどんなに胸が躍るか、切々と語っていた。
やがて食卓が料理でいっぱいになり
ひとくちの味噌汁をすすった後も
彼女の興奮は冷めやらず
「りぶ平良かったー!
今日に限らず、こりゃ今週でいちばんの吉報だね。幸江は?」
と、満足そうな溜息を吐いている。
芝と幸江の夕食時の会話といえば、大体が今日何があったかということだ。
天気が良かった。花が咲いていた。砂山を作った。
あたたかなご飯の湯気に咽せながら話すと
どうしてだろうか、どんなに小さなことだって
例えるなら小石につまずいた程度のことも、とても幸福に思えるのだ。
幸江は目を瞑り、時間を掛けて今日一日のことを振り返った。
「んー、いつも通りの、素敵な一日だったよ。
お洗濯日和だったからお洗濯して気持ちよかったし…
あと、世界征服することにしたこととか。
そのくらいかな。」
「そうだねぇ、今日は青空だったからねぇ…」
芝は幸江の返した答えがいつも通りだったので満足して
申し分ない塩加減の揚げ豆腐を噛み締めた。
薄口なしょうゆダレに舌鼓を打っていると
幸江が言った言葉が頭にどこか引っかかる。
「…っ何言ってんだぃ幸江ぇ!?」
反芻してみて異常に気づいた芝の手から
箸と茶碗が零れ落ちた。
「どうしたの、芝君?」
幸江がいつもの罪のない顔で、首を傾げる。
「だってねお前さん…せ、せかい、せーふく…って…」
「芝君、GLL行きたかったんでしょう。一緒に乗っ取ろう。」
「ちょ、ちょー!待ちなよ幸江ぇ!
熱でもあるんじゃないのかぃ!?」
下手なコラージュのように不自然に紛れ込んだ言葉は
聞き間違いなんかではなく、芝は思わず
テーブルの上をがしゃがしゃ言わせて身を乗り出した。
「めっ。食事中だよ。」
「おっと、すまないね…でもそんなこと言ってる場合かい、
病気なら大変だよう、さっさとcureしなきゃ。
アタシはリヴリーじゃないから…じーじ!じーじは留守なのかい!」
ほとんど泣きそうになりながら椅子を下り、
幸江のおでこに手をくっつけてみたり、家族に助けを求めたり。
うろうろ、うろうろと狼狽する芝を見かねたのだろうか。
幸江も卓を離れ、芝の肩を掴むと無理やり自分のほうを向かせた。
「ねえ、芝君。心配してくれるのは嬉しいんだけど
僕は病気なんかじゃないし、ご飯はちゃんと食べないといけないよ。」
身の凍るような冷たさで、幸江は言った。
言葉こそ子供を叱るときの典型的なそれだが
低く静かな声色はこれ以上の勝手は許さない、という命令である。
まるで銃を突きつけられた気になって、芝は心臓が弾けるような気がした。
何を感じたか幸江が、
「ちょっと待っててね」と言ってその場を去らなかったら
一生のトラウマになっていたかもしれない。
「世界征服のことは芝君も驚いたかもしれないけど
いつかきっと分かってくれると思ってる。芝君は賢い子だからね。」
ダイニングを出る前に、幸江はそう釘を刺す。
冷たい影はうっすらとだが、まだ消えていない。
もう芝が口答えできないように封じ込め続けている。
一人になった彼女は椅子によじ登りながら、
さっきの感触を思い返してぞくりと震える。
あれは間違いなく殺気だ。
しかし、幸江はそんなに余裕のない人間だっただろうか?
ダイニングと廊下を隔てるドアの向こうから
どん、と壁を叩く音が聞こえる。
家全体に振動が伝わってびりりと揺れたのに、誰も反応したりしない。
おかしい。芝は思う。
じーじも、洋も、洵次も垓も、この家には誰もいる気配がしない。
冷たいのだ。
芝はひどく孤独になった気がして、椅子の上で膝を抱えた。
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