ギュニア杯2日目:試合終了
ソンフィが通されたのは、ワイズウッド11階――ギュニア杯の選手達が止まる下の階から
大きく隔たったところにあるスイートだった。
上品な金色の壁紙。
部屋を満たすのはテーブルの上で湯気を立てるコーヒーの香り。
見晴らしの良い窓が壁一面を覆っていて、ホテルとは思えないような部屋だ。
シングルの部屋とは違う、上品な金色の壁紙。
家具はシックな緑とワインレッドに統一されていて、
素人目にもくらくらするくらい宿泊費が高いだろうことは想像がつく。
流石のソンフィも、ちょっと壊せば
ウン十万と弁償させられるだろうものがわんさかある場所で暴れる気にはなれず、
居心地悪そうに畏まって座っていた。
「ハァイ♪」
その向かい、ティーテーブルを挟んで
1匹のネタツザルの女性が声をかけてくる。
寛いだ態度は当然、彼女はこの部屋の宿泊客だ。
西会場主催者、樹樹。
医務室で大暴れしてできるだけえらい奴を呼べと、ソンフィは言ったが
2日も渋っていたくせに、意外やあっさりとお目通りは適った。
一体どういうことか。ソンフィは黙って樹樹を睨み付ける。
「ごめんねぇー、本当はおねえさんのほうから会いにいくつもりだったのー。
だけど、判定に不満でクレームをつけてくる選手は後を絶たないし
主催ってのも、けっこう忙しいもんなのよね。
で、やっと今日、キミに会う時間ができたってワケ。」
樹樹は申し訳なさそうに手を合わせてソンフィを眺めた。
愛想の良い笑い顔は無数の裂傷が縦横無尽に走っている。
彼女もおそらく、ハンターか何かの腕利きなのだろう。
「こんなご丁寧に接待してくれなんて頼んでねェよ。」
ソンフィはいっそう苛ついて低く唸る。
主催者だろうと、彼女は下手に出る気などさらさら無かった。
別に会う時間をわざわざ取らなくても、
その後を絶たないクレーマーとやらのひとりとして処理してもらえれば
もっと早く済んだはずなのだが。
「それより、とっとと俺を試合に復帰させやがれ。」
樹樹は悪びれずに答えた。
まるで、そこに不手際など存在しないかのような言い方だった。
「まず、キミは降参したの。普通に負けたのとは訳が違う。」
「だから、それは言ってる途中で…」
「ギュニア杯は運も大きな要素として認めてるの。
番狂わせは上等、シードも今まで一度もしたことがないくらいよ。
タイミングを見て降参させるのも作戦の一環。
次からは口に気をつけなさいとしか言いようがないな。」
ついに、主催者の口から審判が下った。
ソンフィのギュニア杯は終わった。
ついてなかった。それだけの理由で。
「それにね、いーい?
ソンフィちゃんが敗退してから、今日の午前と午後の分、試合をやったの。
かなりの数の選手が落とされた。
今日は2日目。初日と比べて、何分の1になったか、わかるかなーっ?」
「…1/8」
「よくできましたぁ!」
樹樹は嬉しそうに手を叩いた。
「これでわかったかな?こんな有利な試合にキミを復帰させたら
今まで負けた子たちが、とぉっても悲しくなっちゃうでしょお?
悪いけどぉ、復帰は一切認められないのー。ごめんねー?」
ソンフィはまだ何か言い返そうと、樹樹を凝視し続けていたが、
これ以上言うことが思いつかなかったらしく、視線を下げた。
樹樹が硬直した笑顔で見ている。
上に立つもの特有の、命令にも似た威圧感が
無理やり彼女に敗北を飲み込ませようとしている。
ソンフィは自嘲気味に笑うと、格好をつけて
出されたコーヒーをブラックのまま一気に流し込んだ。
「それでとっとと帰れってか…笑えるぜ。」
吐き捨てるように言ったところで
砂糖もミルクも入っていない苦さの塊が胃を直撃し、
コーヒーまで吐き捨てそうになってしまって彼女は口を噤む。
悔しさは苦さに押し流されたが、涙がうるうるとソンフィの目を覆っていく。
拳を握っているのは苦いからであって、悔しいからではない。
「あれれ?おねえさんからのお手紙、読んでくれなかったのかな?」
コーヒーの苦さに悪戦苦闘している客人を
相変わらずにこにこと見つめながら、樹樹が首を傾げた。
「んぁ゛あ?」普段以上に柄の悪い声をあげてソンフィが応えると
樹樹は看護婦に渡されたのだろう、くしゃくしゃになったソンフィのチェックアウト願いを取り出すと
テーブルに置き、丁寧に広げてみせる。
「いつまでに退去って書いてある?」
ソンフィは頭にはてなマークを浮かべ、しぶしぶそこに目をやる。
72時間以内。
「通常なら、敗退した選手はその日に抜けてもらうんだけどねぇ。」
意味もわからず数字を眺めていた折に、主催の補足で謎が解ける。
そんな事情など知らなかったソンフィは、驚いて樹樹を見上げた。
「じゃあ何でだよ、こりゃ…」
「運営のミス。」
樹樹は驚くほどきっぱりと言ってのけた。
主催者の目の届かないところで、不慣れなアルバイトが手違いを犯した。
『24時間』と『72時間』のタイプミス。些細なミス。
膨大な数の敗退者に渡す手紙をいちいち手打ちしている筈はないから
そんなミスなど起こりえないはずなのに、
樹樹はさも、それが自然であるかのように振舞っていた。
そういうことに、なっていた。
「キミは"運良く"会場に留まる権利を得たわけだ!
折角のGLLなんだから、試合を観戦するなりショッピングに勤しむなり
負けた相手に再戦を申し込むなりなんなり、有意義に使ってネ☆」
樹樹の言葉は快活で、笑顔は笑っていなかった。
ソンフィはもう一度ハガキを見つめる。
故意としか思えないミスで与えられた機会。
しかし、ソンフィの汚名を返上できる、またとないチャンス。
「どぉする?」
樹樹が尋ねる。
ソンフィは迷わず答えた。
「…奴をぶっ潰す。」
『負けた相手に再戦を申し込むなりなんなり、有意義に』
外食をした後、ソンフィはいつものように散歩したりもせず
まっすぐ部屋に帰ることにした。
まるで、夢みたいな気分だった。
何故主催が一選手に構っているのか、
こんな都合のいい話はない、だとかそういうことではない。
隣室の住人が、出かけでもするのか、ドアを開けて顔を出した。
すれ違いざまに何気なくソンフィの顔を見やり、そのまま硬直する。
「…なんだよ。」
牙を剥きだして相手を威嚇すると、彼は幽霊でも見たように真っ白になって逃げていった。
風に吹かれた木の葉みたいだ。
ソンフィは嘲笑いながら、自室のノブに手を掛ける。
入ってすぐ横にある小さな洗面所に入り、手と顔を洗う。
電気はついていない。
そもそもがクロメである彼女には光があろうとなかろうと大差なかった。
まして彼女は――
口を漱いだ水に、僅かな赤が混じっている。
暗がりをひとりで歩いていたリヴリーの首筋にかぶりついて、
真っ赤に染まっていた唇と頬を丁寧に洗い流す。
歯に挟まった小さな肉片まで綺麗にすると
ソンフィは吸血鬼には見えない、ひとりの女性に戻る。
『有意義に』
真っ暗な部屋を横切り、ベッドにどさりと横たわった。
もう一度、樹樹の言葉を反芻する。
彼女がギュニア杯に来た目的は、戦うことだ。
戦えればそれで良い。場外乱闘だろうと構わない。
「フクシュウしなければならない相手がいるなら、ナオサラ。」
「その通りだ。」
ひとりしか居ない室内で、ソンフィは声に出してはっきりと言った。
直後、今自分は誰に向かって答えたのだろうと考える。
「どわあああああっ!?」
ソンフィはとにかく叫んで、叫び終わるとそれから勢いよく跳ね起きた。
ベッドのスプリングがよくきいていて、
パニックに陥った者が起き上がるにはいささかの困難を要する。
何度かぼすんぼすんとベッドに叩きつけられながら、
やっとのことで立ち上がると
「てっ、てめェーっ!ヒトの部屋で何してやがるーっ!?」
コンマ数秒の勢いでソンフィの二丁拳銃が相手を狙った。
相手――クロメの男だった、は素直に両手を上げると
銃を突きつけられているとは思えない程ゆったりとした動作で立ち上がる。
猫科の目は、電気の無い室内でも互いの姿をはっきりと認識していた。
「やぁやぁ、コンバンハ。私の名前はスウィーティー…
大した者じゃないカラ、気軽に呼びつけてくれてカマワナイよ、ソンフィ?」
「よっ、呼び捨てにすんなっ!質問に答えろよ…何でここにいる、ここで何やってるぅうぅ!」
スウィーティーが一歩踏み出すと、ソンフィは来るなああああと叫びながら後ずさった。
相手は丸腰だというのに、相当な狼狽ぶりだ。
スウィーティーは無害であることを強調するようににっと笑った。
「主催サマからのデンゴンを頼まれてね。
キミが復讐の相手をミアヤマッテイルと。」
タイヘンなコトだよ、クロメは腕を広げてわざとらしく慌ててみせる。
ソンフィは軽く片眉を吊り上げた。銃は下ろさない。
スウィーティーはふざけてこそいるようだったが、
どうしてか嘘を言っている雰囲気ではなかった。
「どういうことだ?俺の相手は、俺をハメやがったあのオーガだ。それ以外にいねェよ。」
「残念ながらあの子はクグツにすぎない。クロマクが他にいるのさ。」
傀儡。
言われて、ソンフィの頭にあの喋るのもつっかえつっかえなオーガの姿がよぎる。
そういえば頭は弱そうで、自分の意思で動いているというよりも
どこかに見えない糸がついていて、誰かに動かされている、と表現したほうが適当な
なんだか不思議な奴だったのは確かだ。
「キミの相手は、コッチ。」
スウィーティーはポケットから一枚の紙を取り出しひらひらさせた。
ギュニア杯の受付票のコピーである。
彼がジュジュからの使いだというのは本当らしい。
ソンフィは片手を銃から離し、注意深くそれをひったくる。
そこには中指を突っ立ててレンズぎりぎりまで寄った、ガスマスクのハナアルキの写真が載っていた。
下には見た目そのままの乱暴な字で名前、身長体重などのデータが書きなぐられている。
「チューヅ…?どっかで見たよーな…」
「初日のイチバン初めの戦いで負けたハナアルキだよ。
イキナリ出てアレじゃ、メダッタだろう?
カレも負けたが、観戦チケットを買ってトモダチであるオーガの部屋にイソウロウしてる。
つまり、ふたりはグルってワケ。」
スウィーティーの説明を聞きながら、ソンフィはその言葉をチューヅの書類に重ねてみる。
負けん気の強い性格は、彼女も共感するところがあった。
考えていること自体はふたりとも同じだ。どうしても勝ちたい、戦いたい。
ソンフィの場合はその気持ちが自分を負かせた相手への復讐心として向かい
方やチューヅは自分の力が及ばなかったからといって、
他人に任せて勝ちあがろうという訳か。
臆病者。
そんな烙印を彼女は写真の男に押す。
「あっそ。」
ソンフィは、知らずのうちに下ろしてしまっていた銃を再びスウィーティーに向け、
「恩に着るぜ。じゃあな。」
さらには銃口を真っ白なシャツの背中にぶつけると
つんつんせっついてドアの方向へ押し出していく。
スウィーティーはニヤけながらも
大人しく歩かされていって、自分で扉を開ける。抵抗もない。
彼を廊下に出し終わると、ソンフィはすぐにドアを閉めた。
その閉まる間際に
「また明日。」
と、一言だけ言い残す声。
…あ゛?
ドアを閉めて完全な暗闇を取り戻した室内に
ソンフィの低いぼやきが、くぐもって響いた。
彼女は数分間迷ってから、もう一度ドアを開ける。
帰ってしまっていたら呼び止めようとソンフィは思っていたのだが
スウィーティーは、まるでドアが開くことを予期していたかのように
出て行ったときと同じ姿勢で立っていた。
「こんなオモシロイこと、見てみぬふりをしろって言うのかい?
私はキミが復讐し終わるまで、付きまとうツモリだよ。
ダイジョウブ、邪魔するわけじゃあない。観客だとおもっててくれればイイから。」
「監視する気か?」
当然とでも言うような顔で上がりこんできたスウィーティーを
ソンフィは苦々しい気持ちで迎え撃った。
今度は銃を向けたりはしていないが、保っている距離は敵と対峙したときにとるそれだ。
「そうとも言うかもね。」
そんな緊張に気づいているのかいないのか、
スウィーティーはうわの空で答える。
相変わらずにやにや笑いを浮かべたままの彼は
入ってくるなりお茶が飲みたい等と言い出して
勝手にカップを用意したりお湯を沸かしたりしだし、
今は勝手に戸棚や引き出しを漁るのに夢中な様子だった。
態度の大きな彼を、備え付けの椅子に座って、ソンフィは怪訝そうに眺める。
「ははぁん。わかったぜ。」
大きな声をあげて、ソンフィが長い脚をティーテーブルの上に乗せると
それにスウィーティーは多少心を動かされたようだった。
眉を顰めたのもそうだが、テレビ台の下を探る手を止めて振り向く。
「てめェは運営スタッフのひとりだな?
大会の邪魔になる選手を排除する手伝いを、俺に押し付けようとしてんだろ。
チューヅの何が邪魔だ?負けた癖に立ち退いてねェからか?」
彼は捜索を止めて立ち上がると
空いているほうの椅子の背に手を掛ける。
もう片手にはティーパックの入った小箱。
「それはチガウ。
私はれっきとした選手だし…セイカクに言えば今朝負けるまでは選手"だった"し、
大会で負けた後、他の選手の部屋に滞在するのがイケナイだなんて規則はナイよ。
ゲンに、キミや私だって、負けた癖に立ち退いてねェ奴…ダロウ?
それも主催者公認で。」
その説明に感心したのか、ソンフィはふうむと鼻を鳴らして靴で卓上のティーカップを叩く。
チン、と軽い音。
「コレは私の憶測だけれど」
スウィーティーはにやにや浮ついた笑みで言った。
カップを手に取り、袖口で丁寧に拭いた。
「これはジュジュとか言ったっけ…?あの西会場主催がコジンテキに動いてるコトだ。
恐らくジュジュはあのハナアルキの一味にコジンテキな怨みがある。
ギュニア杯に乗じて、叩いておこうと思ってるんじゃないかな。
彼女はウサンクサイよ。笑顔のウラに何を隠してイルノヤラ?」
そして楽しそうに声を潜め、ひときわ口元を引きつらせる。
その表情は皮肉にも
樹樹の顔を埋め尽くしているあの鉄板のような笑みに、よく似ていた。
電気ジャーが、湯が沸いたことを知らせる。
「ホントか、それ。」
湯を取りに行った背中に向けて、ソンフィは無表情に問いかけ、
問いかけた後で、スウィーティーが最初に「憶測だ」と言ったのを思い出す。
「なぁに、ちょっとイマジネーションを働かせたダケだよ。
真相はどうだかね…おっと、フシンカンを募らせてしまったかな?
だったら困る。キミが復讐にはしってくれなきゃ、場外乱闘がミラレナイじゃないか。」
豊かな緩急をつけて話すスウィーティーの言葉とは実に対照的に
規則正しい水音がカップを満たしていく。
ティーパックの中から甘い茶色がするすると伸びて
透明な水をゆっくりと紅茶にすり替える。
中に粉ミルクを少し。
角砂糖をひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
「どうでもいいぜ。」
溶けていく砂糖を見やりながら
気だるい夜の匂いの中を裂く、よく通る声が言った。
「俺は真相だの策略だのはどうでもいい。
この展開がどこぞの主催者の思う壺だったって構わねェ。
チャンスはチャンスだ。
その黒幕とやらを潰して、気持ちよく暴れられればそれで良い。」
スウィーティーが安堵の微笑みを漏らす。
「ヨカッタ。
私もタノシムまでさ。」
そして一口紅茶をすすると
共犯者めいた声色で囁いた。
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