ギュニア杯:招待状

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塾からの帰り、横浜の空は真っ黒だ。
人の住むようなあたりにはネオンも多くはなく、
塾帰りの少女が一人で歩くには少々抵抗がある。
円は暗い夜道でアパートの前の誘蛾灯の下で、
大振りの死骸をいくつかビニールに拾ってから、暗いアパートの廊下に入り
暗い階段を上がって、手探りで鞄を漁ると暗い家の扉を開ける。
壁を伝って指先に触れるスイッチを次々に点けながら食卓まで辿り着くと、
まだ帰って来ない母親が置いたメモが目に留まる。

お姉ちゃんの夕食を作ってきます。
ご飯は冷蔵庫に入っているから、チンして食べなさい。

「…いい加減子離れしろ。」

円は泣きそうな顔でその紙を睨むと、買ってきたカップ麺にポットの湯を注ぎ、
外した眼鏡を食卓に置いて、ベランダに出ていった。


「あ、おかえんなさい!まってたんだ。」

ベランダにぽつりと小さな赤い光が灯っており、そこから出ていた小さな煙が声とともに揺れる。
ビールのコンテナぐらいの大きさの箱には円のリヴリー…えんまが住んでいて、
この時間になるときまって煙草を吸いながら、円の帰りを待っているのだ。
円は「…ん。」とだけ言い、ビニールに包んだ蛾の死骸を彼に与える。
ぱくぱくと嬉しそうに頬張る彼を、円は言葉少なに、しかし優しい目で眺めながら、
自分も煙草に火をつける。

「…待たせた?」

円が尋ねると、彼は声を弾ませ、

「そうそう。ぼく、いちにちじゅう飼い主さんのことまってたんだよ。」

大きくなっただけの子供のような台詞で円を和ませた。

「あのさ、飼い主さん、飼い主さんのなまえ、ちょうだい。」

サッシに腰を下した途端聞こえてきた
相変わらず崩壊した日本語を理解する前に、
鉛筆と紙を差し出しているえんまの姿が目に入る。

「…何言って」
「飼い主さんのなまえをね、ここにかいてほしいんだ。」

怪訝に思って円はえんまを睨んだが、
彼が自分の名前を知りたがる理由に思い当たり、はっと目を丸くした。

「もしかしてお前、つぶの名前…覚えたいの?」
「うーん…うん。そうかもしれない。それって、いいこと?」

円は顔を真っ赤に染め上げると、
手を震わせながらペンをひったくった。
今まで、2年の付き合いになるが、
えんまが円の名前を覚えようとしたことは一度もなかった。
教えても泣いても頼んでも、口にしたことすら無かった。
他の人間でも代用できる「飼い主さん」なんていう役職名じゃなくて
他の誰でもない、ツブラ、と呼んでほしいとずっと思っていた。

何があったかは知らないが、
円はとにかく嬉しくて嬉しくて仕方がない。
暗くてよく見えない中で、無我夢中で自分の名前と、振り仮名とを書く。
えんまに渡すと、まるで誕生日プレゼントでももらったようなテンションで大喜びしてくれた。

「ありがとう!」
「…これで終わり。…も、寝る、から。」

なんだか照れくさくなってしまって、
嫌でも歪んでしまう口元を押さえながら円は
ぱたぱたと家に飛び込んだ。
窓を閉める前に、こっそりと外を振り返り
自分のリヴリーを、今まで以上に愛おしげに見つめる。

「…おやすみ。」
「うん、おやすみ。いってきます。」

いってきますって何のことだろうと円は思ったが、えんまの言葉が変なのはいつ
ものことなので放っておいた。


翌朝、円はいつもより早く目を覚ました。
パジャマのまま、両親の眠っている部屋の横をそうっと通り過ぎると、
カーテンの裏側に潜り込む。
鍵に手をかけると緊張がぞくりと背筋を撫でた。
飼い主さん、で定着していた自分の名前が、ついに呼ばれる時が来るのだ。
ぎゅっと目を瞑り、祈るような気分でベランダの窓を開く。
そして、箱の中から「ツブラ、」と呼んでくれるのを待った。

しかし。
そこにえんまはいなかった。
島には to Hotel と、金文字で書いてある
真新しい立て看板が立っていただけだった。