07:ヒーナの砂漠

日は傾いて、空がとっぷり藍色に染まった頃。
ツブラが家で夕食を摂っている頃、えんまは島をふらりと後にする。
何度か島をジャンプしては立ち止り、方角が間違っていないか、星を眺めて確認。ざりりと裸足が砂を踏みつけたら、あとはひたすら歩くしかない。布を結んだだけの簡単な手下げには夕飯と、拾いもののがらくたがいくつか詰め込まれている。

だだっぴろい、しかし一続きになった大きな島はスラバヤ群島と呼べる範疇の場所では無かった。えんまの知る限り、そこは「ヒーナ大国」と呼ばれる地域である。少し小高い所から俯瞰すれば広大な砂漠が一望できたが、南風が湿り気を運んでくる入口近辺にはちらほら植生も見つけるることができたし、目的のゲルもギリギリそういう場所にあった。
砂に塗れた帆布がぱたぱたと翻る周りに、何匹かのムシクイ達がうろうろ啄ばむものを探している。えんまは勝手のわかった様子で、扉を捲くった。

迎え討つのは、家主の鋭い視線である。
そのビャッコの男はかつては誉れ高きムシチョウだったのだという。化学者の肩書き(本人は三流と自嘲)を持つ彼は幾度もの実験と失敗を経た結果、今の姿に落ちついたのだそうだ(諦めたとも言う)。紫蘇色の髪を後ろに流し、肌の色は濃い。使い古した白衣をざっくり羽織った、たいそう気性の荒そうなビャッコだった。夜だというのに剃刀を手にしているのは、いかにも宵っ張りの彼らしい。見る所だと数日は無精にしていたらしく、ちょうどこれから体裁を整えて出かけようとでもいうところのようだ。髭を剃るのもそこそこに、彼はぐるりと首を回してえんまを見やった。

「また、来たのか」

石を切り出したような鋭い目鼻立ちは、それだけで近づく者を遠ざける。かつて彼の側に居たものは数少なく、そしてその殆どが生き残っていないというのだが、その理由を彼はなかなか語りたがらない。今は随分丸くなったと言われていることだけを、えんまは知っていた。無論、それだって昔と比較しての話ではあるのだけれど。

「きみが、お腹すかせてるんじゃないかとおもって」

「……要らん」

「そればっかりだ」

拒絶の響きを含むビャッコの声に動じた様子も見せず、えんまは肩をすくめた。ビャッコの声は低く流れ、時に少し卑屈な響きすら帯びている。その理由をなんとなくえんまも察知しているからなのだろうか、起伏の無い、穏やかな口調がなだめるように

「わがままを、ゆわないんだよ。
 きみには飼い主さんがいないんだから、わすれないように夕食をたべしなくちゃ」

「貴サマがカイヌシの代わりとでもいうつもりか?馬鹿め」

ビャッコはこの近辺には珍しく、母胎生まれのリヴリーであった。飼い主が居ないというのはそういう意味で、いわゆる“野良”とはまた異なる。よって、他人に頼るだとか甘えるだとかいう頭は、生まれつき彼の持ち合わせには無かったのだろう。人生の大半を孤独と共に過ごしてきたが故の、この攻撃性である。

不機嫌そうに吐き捨てたビャッコはだがしかし、えんまがガチャンガチャンと不手際に食卓の用意をするのを止めようとはしなかった。えんまもえんまで慣れているのか、(ビャッコは一人暮らしの筈なのだが)二人分の食器を棚から鷲掴み、不手際なりに食べ物を盛っていく。今日のディナーはカブトムシとウスバカゲロウを簡単に湯がいたものに、甘味噌と少しの野菜の付け合わせである。
ビャッコはどう見ても使用中の実験用具を片づけようとしたときになってやっと「こら触るな」と叱りつけて、そのときにはもうすっかりかっちりとした支那服に身を包んでいた。

「これは、さわっちゃダメなのか」

「ああそうだ……木偶、私は忙しい。貴サマとは違うのだ手間をとらせるな。
 用意したって無駄だぞ。下らんままごとに付き合ってやるつもりは毛頭無いのだからな!」

忙しいというのは、虚勢ではない。見た目のとおり彼はヒーナと呼ばれる土地の政務官なのである。何故彼がそんな大役を担っているのかも、外部の者には謎である……それは書物をひもとかない限り、もしくは彼自身が語らない限りはけして表沙汰にはならない物語だ。公に伝わっているのは、昔あった戦争のこと、そして、その責任を負ったのがこのビャッコであるという、その二点だけ。

「チュータツさん、たべよう」

えんまが、ビャッコの名前を呼んだ。長旅をしてきたせいで冷めた夕食が、蝋燭に照らされて食卓に並べられている。ビャッコ、否、チュータツは拗ねた子供のような仏頂面でそれらを眺める。

「……そこまで言うなら食ってやらんでも、ない」

彼が投げやりに振った尾のせいで、蝋燭の炎がゆらりと揺れた。







―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-
-チュータツ ビャッコ
情に欠けた科学者。
野心家であり、かつてヒーナ大国でクーデターを首謀したこともある。
自分の思い通りにならないことを最も不快とし、
そのプライドの高さから徒に苛立つこともしばしば。
えんまに一方的に仲良くされているが、まんざらでも無い様子。

もともと「誰が殺たしクックロビン」から嫁に来て下さった方です