06:横浜、某市某区

色々なところを回ってみた結果、体育館脇の非常階段がいちばん居心地良いということに、彼女は気付いたのだった。

そこは暖かいし、図書館のように小声で(でもしつこいから意味がない)話しかけてくる生徒もいない。蛍光灯のスイッチはきっと、触れられることすら殆ど無いのだろう。昼下がりの冷たい白さをした光がガラスに散らされながら足元を照らして、無機質な色合いが一人ぼっちにはかえって親しげだ。客観的に見ても妥当なチョイスだといえる。

階段のちりを軽く払うと、彼女、伊東 円はそこに腰を下ろし、背中を丸めて壁に凭れた。
栗色に脱色したおかっぱの髪が隠すのは、見る人の印象に残りにくい薄い作りの顔だ。起伏の少ない顔に、鉛筆で適当に描いたような目鼻立ち。
赤みを帯びた頬が妙に目立っていたが、それは生まれつきの事である。
気難しそうな見てくれそのままな性格の通り、服装にも拘りたがる彼女であったが、流石に学校では真新しいシャツに、落ち着いたグリーンのスカートという凡庸な格好を我慢しているようだった。まるで窮屈なファッションだったが、それでも目立つより余程良いと、彼女は思っているようだ。

壁を挟んで向こうは三階まで吹き抜けの体育館になっているため、誰かの力強いドリブルの音がまちまちなリズムで響いている。
ツブラはおもむろに携帯を取り出すと、青白く光るディスプレイを覗き込む。
斜めに入ったヒビをなぞって小さく苦笑し、そしてふと、何かに注意を留めた。見なれぬ色合いの何かでも見つけたのだろうか、能面のような顔にほんのりと不思議そうな色を宿して、彼女はゆっくりとカーソルを動かす――

「伊東さん?」

と、誰かがぽんっと名前を呼んだ。
まどろみのような心地よい静寂から顔を上げれば、浅黒い顔が階段の下にひょこりと覗いている。緩い天然パーマの短髪の下に、濃ゆい目鼻立ちがいかにもいたずらそうに様子を伺っていた。そう簡単に忘れられる顔ではない。何日か前に話したのを覚えている……図書室の喧騒の一人なのだろう。
時計によると、まだ授業は始まっていない。
おせっかい。ツブラは一気に仏頂面に戻る。

「おれ、近江だけど…覚えてるかな。席が3つ後ろの」

「……なんか、用」

「いやー、伊東さんがいつも一人みたいだしさ、ほら」

近江 新志。
中学からの友人は彼をアラジンとかあだ名していたけれど、由来はその顔立ちだけではないらしい。話しぶりから何からお前はアラブのドブネズミかダイヤの原石かと聞きたくなるような。ツブラは犬は好きだが、犬っぽい人間は好きではなかった。
アラシは傾斜のきつい階段を身軽に登ると、ツブラの一段下に腰を下ろした。埃が舞い上がる。

「中学の同級生は?」

「佐藤由美、山形良樹、野球部の金田」

「じゃあ二中かぁ……あそこは吹奏楽が有名だもんね、おれも去年、」

「……今、音楽聞いてるんだけど」

鞄の横のポケットをわざとらしく覗いているのが嫌で、鞄をぎゅっと胸に抱え込む。これで近江の話しかける口実は無くなった、と思うや否や

「あ、」

手のひらからすり抜ける携帯に、ツブラの声。

「返せよ」

一段下でアラシが立ち上がった。ストラップを指でつまみ、やっと話ができるとばかりのしたり顔である。掴まえようとするツブラの手をぶらりと避けて、携帯がふりこのように揺れた。

「話聞いてないでしょ。そもそも俺の名前覚えてる?」

「ふっざけんな!返せ!」

器用にも後ろ歩きで距離を開き、大仰たらしく携帯を開くアラシ。

「何やってたの?メール?」

ぱっと明るくなった画面をかばい、ツブラは顔を真っ赤にしながら掴みかかった。何かもぎとったと思った彼女が開いた掌には男物の腕時計。慌てて階段を駆けおりるも追い付かず、彼女の目に映ったのは踊り場で折り返して下に走る階段で、得意げに戦利品を見せびらかすアラシの姿である。

「近江ーっ!」

ツブラは手すりから身を乗り出し、彼女の叫び声がフロア中に響き渡る――







「アラジンって、足も早いんだね。図書委員ってもっと文系かと思った」

「伊東ツブラが喋ったらしいぞ」

「ていうか、飛んだらしい」

帰りのホームルームになっても、噂の声は絶えなかった。
ようやく慣れが出てきた五月、高校生活を謳歌するクラスメイトたちとしてはまさしくそれは、新しい友人と盛り上がる絶好の話題だったに違いない。「これぞ、青春!」そんな声も聞こえた。
そのくせ話題の中心であるツブラに話しかける者はいつもどおりおらず、同じくアラシに話しかける者も、こっちは珍しいことに居なかったのだが。

「……ごめん」

教室を立つ前にかすかな声が聞こえたが、ツブラは無視を決め込んだ。








「あのぅ……」

「ん」

ディスプレイを叩く小さな音に、ずんずん家路を急いでいたツブラの歩みが弱まる。
ポケットから携帯を取り出すと、彼女のリヴリーが心配そうに主人の顔色を伺っていた。一昨日、えんまは同じ仕草によって画面にヒビを入れたから反省しているのか、いくぶん音が小さい。思わずツブラの口元が緩む。

「飼い主さん、だいじょうぶかい?すごく、おこってたから…」

あの物静かな伊東ツブラが階段の手すりを乗り越え、飛び降りてくるだなんて近江も予想しなかったのだろう。膝を擦りむきながらも逃げ道に立ちふさがったツブラは、それ以上なにをするでもなかったが、尻餅をついた近江に怒りを伝えるには、どうやら十分過ぎたようで。

「…別に。お前を盗られて腹が立っただけ。
 万一リヴリーアイランドで出くわしたりとかして、お前の飼い主がツブだってバレるのやだし」

「なんか、うれしいや」

ツブラは返事を返す代わり、そっぽを向いて唇を噛んで表情を抑えた。

「どうだった、学校」

「おもしろかった!」

「お前も行ってたじゃん」

「うんとね、リヴ学とはすこし、ちがうけど…すこしおなじだった。」

「……もう少し賢そうにしゃべれないの」

えへへ。
馬鹿なペットは、携帯の中でチカチカ笑う。

飼い主はログインすることにより、リヴリーと共にアイランドを疑似体験することもできるが、人間の世界とは違う大気に生きるリヴリーは、腕に余る程かさばる箱庭から出すことができない。
実装されたばかりのおでかけリヴリーのシステムを使ってみるのは、ツブラにとってはちょっとした冒険だったのだろうが(そして案の定、携帯はえんまによって壊されたわけだが)、どうやらまんざらでもない結果が得られたようである。

「それに、飼い主さんの世界のことを、よくわかった」

それから、えんまは一生懸命に今日、見聞きしたことを話してくれた。
はじめて見る自動車。赤信号「とまれ」で止まるひとびとのこと。カーカー鳴くクロモリとかみたいな鳥に、ピカピカのコンビニ。宝石のお金と、紙のお金のこと。
えんまが見ているものは、ツブラも見ているものだというのに。

「そっちの世界は、ふしぎなことでいっぱいなんだねぇ」

ツブラには、自分の生活が、えんまが考えるほどに素敵なようには思えなかったが、あまりに彼が幸せそうなので黙っていた。お前はこの世界に紛れ込んだ魔法なんだよと思いながら、それを聞いていた。

「ねえ、あした、アラジンにこんにちはしていいかな?」

「明日は、土曜日!…つーか、近江と喋んな!」







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-伊東 円 高校生
横浜市在住。
無口でロックな芸術家肌。
反抗的で群れるのが嫌いな、複雑なお年頃。
絵を描くのが好きで、夜な夜なスプレー片手にグラフィティを描きにいく。
タバコと犬と、マカロニグラタンが好き。

薄紫のオーガ、えんまの飼い主。

-近江 新志 図書委員長
横浜市在住。あだ名は「アラジン」。
明るく爽やかなチャレンジャー。
グループをまとめるのが好きな行動派。よく何かのリーダーをやっている。
積極的で人懐こいが、調子に乗って失敗することも。
動物とワクワク感とおいしいエスプレッソが好き。

親戚の桐生さんのところでバイトという名の雑用をしていて、たまにリヴリーの世話もする。