05:怪物の森
ところで、怪物の森の気候というのは、四季を通してあまり変化が無い。
木が密なので空もあまり見えないし、風通しもかなり悪い。地面を見やれば日光を浴びずとも育つシダやコケばかりが生えていて、例えばそこに何か落ちたとしても、今までのように、とん、なんて音はたてないで、ゆっくりぬかるみに呑まれていくばかりだろう。ここいらに住んでいるのはそんな陰気な気候に適した者たち、つまりモンスター種ばかりだったが、今日は珍しくもリヴリーの姿を見ることができた。
クロメの、まだ幼い少女だ。
喉の奥は、まるで紅茶を飲みほしたあとみたいに熱く、しかしからからに乾いていて、噴きだす汗は涙やおしろいに混ざり合って顔を伝い落ちる。心臓はばくばく、息はぜえぜえ、激しいリズムは少女を焦らせ、闇の奥へと追い立てていく。水気を含み過ぎてスポンジのようになった土の中に無造作に浮かぶ球体(先ほど紹介したようにぬかるみに呑まれかけの)にミュールの踵が滑った。べっちゃりと悪趣味な音を立て、少女は顔から泥に突っ込む。
「……うぶ!」
紐でできているように華奢な靴は、走るのには適さない。いっそ脱いで逃げようと、彼女はリボンに手をかけるも、震える手では解けなかった。冷えて白くなった指先を、絡めて擦って必死に動かそうと試みる――この気温にこの湿度。もうすっかり夏だというのに。
「ぅえ、」
小さな嗚咽を彼女は漏らす。
見上げれば薄暗い、葉をつけた叫びの木の群生林である。
飛んで逃げるのはクロメの得意だったが、天井を塞いで葉の茂るここではその特性も生かすことができず、なにより彼女は片翼をばっさり裂かれていた。薄桃色の毛色はたいそう愛らしく、大事に育てられた娘であることは、仕立ての良い黒のワンピースを纏う身なりからも想像がつく。間違ってもこんなところに迷いこむような身分ではない。ハンター紛いの役目は背負っていない子供なのだから、こんな怪我をしてこんな場所にいるのはただの事故だったのだ。軽い気持ちで踏み入ったティータイム公園の柵の奥で、まさかこんな――
歪む視界を直すため、群青のシャドーごと目元をぬぐう。どこまで逃げてきたのか解らないが、もしかすると怪物の森に差し掛かっているのかもしれないと、彼女は思った。そうなったら命はない。
「お嬢ちゃん、みーっけ」
全身の毛を逆立てた。名指しされて立ち上がる学生のように(実際、少女の名前は「おじょう」というのだが)ぴょんと跳ねあがり、慌てふためきながら声の出所を探す、探したからといって何ができるわけでもないが、そうせずにはいられなかった。苦心するまでも無く、声の主は現れる。ばきばきと背後の木を押しやって現れたのは、でっぷり太った雄の蜘蛛だ。鉛色の肌はぱんぱんに張り詰めて肥えていて、その大きさは規格外。
ジョロウグモ最高位の種、アルゴルである。
「ガキんちょにしちゃあ、まぁまぁ頑張ったのは褒めたげるよ。
だけど僕ちゃん、いいかげん飽きてきちゃったんだよねぇ〜。
オマエも疲れたっしょ?ひと思いにぶっ殺してやるから、喜びな」
八つの目を細めて舌舐めずりするアルゴルに、おじょうは口をぱくぱくさせて応じた。お尻が泥に浸かるのも気に留めず、後ずさって逃げようとするが、もう立ち上がる気力も残っていない。目に涙をいっぱいためる少女の声にならない叫び声は、捕食者を喜ばせるばかりである。
――ばぁば、助けてよ
飼い主が、呼び戻してやくれないだろうか。僅かな期待をこめて、おじょうは金鎖の腕時計に目をやった。今は午後2時50分。飼い主がフラダンス教室から帰ってくるまで、あと10分以上もある。定年後の楽しみに、実の孫みたいに可愛がっているリヴリーが命の危機と知れば、ばぁばは何をも差し置いて助けに来るだろうが、残念ながら今のおじょうにそれを伝える術は無かった。
アルゴルの右腕に、黒くて鋭い鉤爪がぎらりと光っている。食物乏しい怪物の森に居てこんなに肥えるくらい実力のあるモンスターだ、何百というリヴリーがこの凶器に掛けられてきたのだ。そしてもうすぐ、おじょうも被害者のひとりとなる。彼女は観念して、目を瞑った。
「死ね!」
「させないわ!」
そのときだ。
辺りが一時、真っ白に染まった。そして、次の瞬間ものすごい雷鳴と共に”何か”が二匹の間に割り込んできた。その迫力ときたら、隕石のようだった。おじょうが目を開けた時には、少し遠くに尻餅をついたアルゴルがいた。そして彼女との間には、美しいジュラファントが一頭、立ち塞がっていたのだ。
雷の色を映したような眩しい金髪を優雅に揺らし、頭には白の、仕立ての良いシルクハット。背中の大きく開いたコスチュームは年齢と比較して若干ギリギリのように思われ、プリーツスカートから伸びる脚ときたら……逞しくて、一発蹴られたら顎を砕かれそうである。
「マジカルジュラシックエレファント、マキアージュ、見参!
悪い子は死刑☆だぞっ」
そのジュラファントは何故だか、虹色に光っているように見えた。本来ならばありえない色。しかしおじょうにとっては自分の命が助かったことのほうがよほどありえなかったので、突っ込むこともせず、ぽかんと口を半開きにしてへたっていた。
「ここで会ったが百万年!
今日をキミの命日にしてあげるわ、バスチアン!」
きびきびとポーズを決めながら、マキアージュは見下ろす敵に人差し指を向ける。彼女の両目にはそれぞれ縦に大きな裂傷が走っているため、薄目以上には開けなかったが、それでも精一杯に睨みを利かす。
アルゴル、否、バスチアンと名指しされた一人格は不愉快そうに表情を歪めた。
「……なんだ、テメェか。
僕ちゃんのテリトリーで勝手してんじゃねぇし?」
「どこであろうと、弱い者いぢめはお姉さんが許さないんだから!」
耳の高さに切りそろえたマゼンタピンクの髪を不機嫌そうに掻き上げ、「ハン」と嘲笑うバスチアン。
「ただ暴れたいだけの口実にしちゃあ、随分とまぁ、おキレイだねぇ。
その発想力には乾杯しちゃうよ。それとも……
やだなー、まぁーだ根に持っちゃってるワケぇ?」
のっそり大きく動きがあったためジュジュは身構えたが、バスチアンはスーツの土を払うと、手近な木の幹に体を凭れかけさせただけだった。
「初めて会ったときのことだよ。オマエは丁度、そのコくらいだったっけ。
今よりもっとちっぽけだったけど、
そんときからいい服着てたよなぁ、覚えてる?」
さして太くもない木は、軽くしなって持ちこたえる。バスチアンは顎でしゃくっておじょうを示した。
「ひっ」突然話題の中心に放り出され、おじょうは全身の毛を逆立てたが、加勢を得た嬉しさに、体の硬直は和らいでいる。バスチアンは舐め回すような視線でマキアージュを眺めていた。凄腕のハンターを前にしているのは解るだろうに、ちっとも恐れている様子はなかった。
「僕ちゃんはよーっく覚えてるぜ。オトモダチが殺されてく目の前で
ヤメテヤメテって泣きじゃくってさ……オマエはすげー可愛かったよ」
彼が見ているのはマキアージュに変身した相手ではなく、
ただの生身の少女だったからだ。
「見ねーうちにほんっとブスになったなァ、ジュジュ!!」
ぐじゅ、マキアージュがブーツで泥を踏みにじる音がした。バスチアンの挑発は彼女の表情ひとつ変えさせなかったが、怒りの気配だけは飛躍的に増幅したようだ。
「お姉さんのこと、覚えていてくれて嬉しかったわ。
さぁ!決着をつけましょう!」
マキアージュは押し殺した声で宣誓すると、右手に携えた街灯型のマジカルステッキにオーラを纏わせるや否や、無防備なバスチアンに殴りかかった。
ハンマーだ。魔力が凝縮して、凶悪な得物に変わる。
「ばーか、出来レースなんざ乗ってやるかっつーの!」
だが、バスチアンのほうが何枚も上手だった。彼女の攻撃を右中腕一本で制してから、下の腕で髪を掴んで自分の膝に叩きつける。懐に飛び込んで魔法を詠唱する算段だったらしいマキアージュが立ち直らないうちに鉤爪で二回、三回と浅く切り裂き、仕上げに喉を突いてからゴミでも捨てるように放り投げた。ジュラファントの巨体がばしゃりと泥を跳ね返す。見た目からは想像もつかないような俊敏な身のこなしである。
マキアージュはまだ動いていたがバスチアンの攻撃はそれきりで、彼は木の上へと体を弾ませる。
「逃げる気!!!」
「お前見てたら食欲失せたわ。
そんなにチビちゃん死なせたくないんだったら、くれてやりますしー。
バスチアン様は案外ウツワがでけぇのよ。これでご満足だろ?」
返事をするかわりに、変身の解けたマキアージュ――今はジュジュと呼ぶのが正しいかもしれない、の手から雷撃が飛んだ。バスチアンは手をひらひら振ると、攻撃の当たる前に枝を蹴り、さっさと姿を消してしまう。大蜘蛛の体重を一手に受けていた若木は、やっと重みから解放されてゆっくり左右に身を揺すっていたが、次の瞬間には哀れにも真っ黒焦げの消し墨に変わってしまった。
泥の中から、ジュジュがおもむろに立ち上がる。怒りの炎も、そして虹色の光も彼女からは消えていた。どこからどう見ても、上品なアイボリーの衣装と泥に塗れているだけのジュラファントのハンターである。彼女は言った。
「怪我はない!?」
「え!……と、あ、ああ、はいっ!」
声を掛けられて、おじょうは改めて自分の身から危険が去ったことに思い当った。
恐怖と驚きの極限状態の中で、そんなことすっかり頭から抜け落ちていたのだ。自らの体に目をやれば、汚水を擦った手袋に、台無しになってしまったワンピース。でも、傷は羽に受けたもの以外ひとつもない。おじょうは生きている……本当に助かったのだ!
「あの、ありがt」
「ああ、なんてこと!!
今日も可愛い女の子の命を救ったお姉さんだったけれど、
代わりに宿敵バスチアンを逃してしまったわ!」
だが、感極まるおじょうのお礼は、ジュジュの謎の叫びに遮られることとなった。
観れば、彼女はポージングを決め、完全に語りモードに突入している。それはまるでナレーションを付けるような他人事じみた口調で、もしくは、自分に言い聞かせているようでもあり。
「……いいえ、しかしこれは運命の再会。
奴が戦いに背を向けようとも、正義の魔女っ娘は追撃の手を緩めようとはしない。
なぜなら、悪は必ず滅びるのだから!
行け!魔法少女マキアージュ!!がんばれ!魔法少女マキアージュ……」
叫んでいるうちにテンションが上がってきたのか、ついには走り出したジュジュの姿はあっという間に暗闇の中に突っ込んでいき、元気な声もだんだんと遠ざかって最後は聞こえなくなった。取り残されたのは、茫然とへたりこむおじょうひとりである。
さっきまでは感謝の気持ちでいっぱいの彼女だったが、もうすっかり頭は冷えていた。さっき見たもの経験したものはすべて、夢だったのではないかとすら考えていた。もしかしたらバスチアンの言ったことは本当で、ジュジュにとってはおじょうを守ることなんて、本当は暴れる口実にすぎなかったのではないか、とも。そして、一番現実的なことは
「あ、アタシ、どうやって帰ったらいいのよぅー!」
誰も居ない真っ暗な森の中、おじょうの悲鳴だけが空しくこだました。
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-おじょう クロメ
元気一杯な女の子。10歳。
おマセでお調子者の宴会部長。
お化粧上手で流行にもビンカン。
ファッションリーダーを自負しているが、すっぴんは見せられないらしい。
好みのタイプはドリミーさん。
飼い主は某都市郊外にお住まいの老女、ばぁばこと城島さん。
-バスチアン アルゴル
怪物の森の一角を仕切るアルゴル。Dとマークの従兄弟にあたる。
オスでありながらも若くしてのし上がった実力者。
残忍で横暴な性格で、徹底的なワンマンボスだが
目を掛けられれば案外面倒見が良いらしい。
なぜかドルテのことを毛嫌いしているが…?
-樹樹 ジュラファント
クリーム色の魔女っ娘(自称)。
色んな意味で恐ろしい怪力との持ち主。
常にハイテンションMAX、人の話は全く聞かない。
美しき(自称)虹色のエンジェル(自称)「マキアージュ」に変身し
モンスター絶滅を目標にかかげ、日夜華麗に活躍(自称)するその姿は
「交通事故」と評されているとかなんとか。
こう見えて、大金持ちの桐生さんに飼われている令嬢。
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