04:Dの診療所
「……ドルテは」
「あぁン?」
彼女の名前がちょうど別の場所でも話題に上っていたのは偶然なのだろうか。
スラバヤから遠く遠く離れた地、リヴリーアイランド本島とは地続きの怪物の森でのことだ。モンスターツリーの密林をくぐってくぐって奥深く。唐突に目に飛び込んでくるショッキングピンクのテントは、見た目に反して、ここいらじゃあ有名な診療所だった。ラメを織り込んだ蜘蛛糸織のカーテンが幾重にも幾重にも重なる豪奢な住処が、まるでラブホテルを連想させるのはいかがなものだろう。「無料診療所」と都合のいい言葉にホイホイ入り口をくぐった客は、やっぱりきちんと対価を支払わされるのである。
むろん、体で。
風も吹いていないのにひらめいたカーテンの隙間から、無造作に椅子だけが置かれたロビー、そして診察室に向かう白い間仕切りが覗いている。昼下がりの陽光だけに薄ぼんやりと照らされたその室内(意外や整頓されて、普通の医療機関のようだった)に、とん、と何かの弾むような音が響いた。それに促されるようにして、女の声がぽつり呟いた。
「ドルテは、今頃、なにをしてるのかしらねェン……」
パンティにブーツだけという出で立ちで診察台に横たわった雌のジャワは、緑のスーツをとうに足元に脱ぎ捨ててしまっていた。鉛色の首筋に伝う玉の汗、隣で背中を向けて体裁を整えている裸のお相手の姿が、先ほどまで及んでいた行為の激しさを物語っている。
彼女が、たいそう腕利きと大評判の女医、Dである。分類するなら専門は内科。特に感染症と内分泌系ならば右に出る者はなく、優秀な研究者でもあるのは、老若男女、種族まで問わず昏倒させ(て、コトに及ぶのだ)てきた人工フェロモンの抜群の利き目が一番よく証明しているだろう。圧倒的に欠けているメスの魅力を科学の力で補った結果、この名声が得られたというわけだ。それに、楽しいアソビのお相手も。
「さぁねェ……まぁたどっかのボーイフレンドんとこで
よろしくやってンじゃねぇかなぁ?」
コート掛けと机の間から、座らない顎をがくがくさせながら答えたのは雄のコンパイルだ。弟のマークである。姉の細い藪睨みの目と違い、目尻の下がった表情はイメージ的には柔和だが、どことなく信用ならない胡散臭さを漂わせている。例えば「君を大事にするよ」だとか、それはいかにもマークの言いそうな台詞だし実際手当たり次第のメスに向かって吐いている嘘でもあった。
彼は空中に張ったハンモックの上で満足そうに大欠伸を漏らし、ハデなオレンジのジャケットの可動範囲限界まで、ぐぐぐと伸びをした。なかなか長身のマークだったが、酷い猫背が彼を狭い隙間にジャストフィットさせていた。
「最近、リヴリーと遊ぶことも多いっていうから、心配だわぁン」
「遊ぶくれぇなら心配するこたァねぇよ……おっとメガネはここだぜぇ」
転がったままの体制で横着にベッドサイドを探り始めた姉に向かって、彼は床に落ちていたメガネを勢いよく蹴り飛ばしてやる。「ああ」Dは言って、8つのレンズが複雑にくっついたそれらを手に取る。分厚いレンズに視界を安定させ、満足したDの後ろから
身支度を終えた相方が
「……ドルテより、あたしの心配もして欲しいものね」
と、不機嫌に振り返った。タイトな裾のワンピースは、まるで喪服。くすんだ黄色の金髪は長く分厚く体に纏わりついて、隈に覆われた目元に余分に影を落としている。彼女は腹にそっと手を当てる。抱卵の最中だった。相手が誰かは知らないが、恐らく父親は名有りの誰かだろう。くたびれていたって彼女はベルガであり、それなり以上の相手でなければ体を許したりはしないから。
「……卵がわれていたらあなたのせいだわ、D」
「あァン、レナ……私は専門医なのよォン?任せて。お楽しみも産卵も、抜かりなくやりましょ?」
「……馬鹿ね」
Dは恋人の大きく膨らんだ腹を、まるで自分の孕ませた子だと言わんばかりに抱き締める。レナはむっとして唇を固く結んだが、まんざらでもない様子だ。
「……それにドルテには今のところ、何の動きもないはずよ。
あなたがここに来る余裕があるってことは、そうなんでしょう。ペケ?」
「ぴー」
甲高い声のしたほうをDとマークが見やれば、カーテンの下から一匹のカマキリの子供が這い出してきた。顔は白塗りで滑稽に、オスのくせにお団子頭なんか結い、蛍光色に近い黄緑でチカチカしたケープを身につけて、成りはまるでピエロのようだ。おどけた仕草で出てきたものの、それほど目立つ身なりをしているのに足音も気配も全くと言っていいほど消していたのは、考えてみれば非常に不気味なことである。
ペケは、レナが育てた子供だった。彼女は、自分の産んだ卵はもちろんのこと、他所の群れから見捨てられた幼虫も無差別に拾って、そしてリヴリーを殺す殺戮マシーンに仕立て上げるのを生き甲斐にしているのだった。オオカマキリのペケはその一匹で、それもかなり優秀な部類だった。どのくらいかというと、ここらのテリトリーの支配者であるアルゴルのバスチアンに、スパイとして扱き使われるくらいに。
「ペケの手、窓の手まっしろっけっけ、結構毛だらけ猫灰だらけ」
ペケはいつもの風変わりな口調で、現状を語った――彼はこの喋り方が原因で、ローズウッドにキチガイの役立たずだと見なされたのだった。だが、馬鹿の振りをしていたおかげで、ペケは凶暴なメスカマキリに見染められて食べられる惨事を回避したのである。ペケの額に押されたばってん印の烙印は証であり、彼なりの処世術でもある。
Dはペケの話に、複雑な表情でため息をついた。謎かけめいた説明も、慣れてしまえば解読に手間取ることはない。
「バスチアンもおかしなことするわよねェン……
どうしてドルテに見張りなんかつけるのかしらァン?」
ペケの仕事は、ドルテの動きを見張り、逐一報告することである。
テリトリーのアルゴルともあろうものがスパイする内容としては拍子抜けするくらい間の抜けたものである。が、バスチアンは周りの予想以上に、その情報に関心を持っていた。彼はドルテを執拗に嫌っていた――恐れているようですら、あった。
彼は決して無能なアルゴルではなかったし、忠告を受け入れるだけの度量も持ち合わせていたが、その点だけについてだけは頑として聞こうとしなかった。従姉弟でもあり、彼が誰より重用しているはずのDとマークですら、その理由は知らない。
「不安分子だとは思ってるようだけど、それにしては手を下す気もないようだし。
どうも歯切れが悪いのよねェン。
急に動かれたら、ドルテを庇う暇もないかもしれない」
「そりゃ姉貴、決まってンだろうがよ、ドルテは……」
マークはけらけら笑ったが、ぴたりと表情を生真面目に戻すとペケを膝に抱き上げて
「ペケ坊、重くなったな!」
それきり言葉を濁し、先を続けようとはしなかった。
「……バスチアンは根拠なく行動するようなオスじゃない」
弟の様子を複雑な表情で見つめるDに、レナが囁く。先程よりも、幾分か優しい口調だ。彼女は知っているのだ。Dがバスチアンを、ドルテを、どんなに大事に思っているか。
「彼はいつだって冷静よ……そして、ドルテだって
見てくれほど馬鹿な子じゃない……
あの二匹なら、大丈夫。何も心配することないわ、D」
「そうねェン」
しばらく間をおいてから、Dは笑顔を取り戻す。レナの肩に頬を擦りつけ、甘い汗の香りがする場所全てにキスを落とす。
「ドルテはなんてったって、あなたの育てた子だし、ねェ?」
「……なんですって!」
ヒステリックなレナの叫び声が、診療所のカーテンを震わせた。
残響の響き渡った直後の診察室、鋭い鉤爪を八本全て露にして立ち竦むレナの眼前には、黄色の体液に染まったシーツと、胸部を浅く?切られて青ざめるDの姿があった。
「ドルテがあんな風になっちゃったのは、一体だれのせいだと思ってるのよ!」
「さァ……」
「なァ?」
返り血に塗れて怒る壮絶な妊婦の前、ジャワとコンパイルの問題姉弟は顔を見合わせた。
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-D ジャワ
内科医。
マークの姉で、バスチアンの年上の従姉弟。
色情狂で、しょっちゅう雄を連れ込んでいるが、医者としての腕は確か。
フェロモンに詳しく、どんな虫もイチコロでベッドに連れ込むのが目標。
バスチアンに話を通すには、Dかマークを経由すると穏便に収まることが多いそう。
-マーク コンパイル
Dの弟で、バスチアンの年下の従兄弟。
言っていることが結構適当で、約束もどんどん破るテキトー男。
ミニリヴのコレクターで、空いた島に集めて可愛がっている。
子供と小さいもの、可愛らしいものが大好き。
しかし、責任感はまるでない。
-レナ ベルガ
見るたびに妊娠している、疲れた印象の女性。
幼虫をこよなく愛しており、産むのはもちろん、無差別に拾ってきては仕込むのが生きがい。
リヴリーには何らかのトラウマがあるらしく、食べるのも嫌なので
そういう意味での菜食主義者である。
怒るとかなりヒステリック。
-ペケ オオカマキリ
レナの拾い子で、ローズウッドの息子。
バスチアンにこき使われる日々に、黙って必死で耐えている。
風景に溶け込める特性を生かし、スパイとして活躍中。
おどけているが、たまにマトモに喋る様子から して割とキレる様子。
本音を言うと、権力者はみんな共倒れになればいいとか思っている。
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