食糧征服計画 01

そこに、マフィンがあった。
事実認識としてはそれで十分だ。
ターゲットロックオン、目標は射程距離内。
壁に耳あり障子にメアリー、うまい匂いを嗅ぎつけた他の手に奪い取られる前に
身を低くして一気に飛びかかった。
…。
しかし獲物もさる者、惜しい所で、さっと右に引く。
マフィンが動くことくらい想定の範囲内だ。
頭を上げ、改めて軌道を読み直し、先手を打って食らいつく!
マフィンは体をねじりよじって必死の形相で逃げようとするが
お生憎さま、食い込む牙から逃れられはしない。
…。
むしゃむしゃごっくん、哀れマフィンは腹の中。
と思うもつかの間、喉に何かが引っかかる。

「ぐえっ!」

噎せこんでいるのをかわいそうに思ったか、誰かが彼女をそっと抱きあげる。
彼女の腕を背中にきちんと揃えて回し、結った髪をぐいっと引っ張った。

「よう、害鳥!」

喉に手首まで突っ込まれていては、誰だって返事のしようもない。
海老反りの体勢では顎を閉じて腕を噛み千切ってやることもかなわず、
もごもごと釣り針をとらせるままでいた。
粘膜が傷つくのもお構いなしで、雑に反しを外した男は
枷のつけた腕をひざでおさまえ、後頭部を体重をかけて押さえて
ようやく上々の機嫌で口を開く。

「よくも僕んちを食糧庫だなんだと吹聴してくれたな。え?
 お陰で君の同類が食って壊して好き放題だ。
 全て弁償して頂こうか、といったって、
 どうせ君は金なんか持ってないだろうがな!」

「そりゃ悪ぅ御座いましたね。
 金で済むんなら猶予をくれりゃあどっかの厨房で作って来ますけど」

「とかいってこの先も食いつぶされるのはもう沢山なんだよ!
 そこで僕は君を売って稼ぐことにした。
 さようならリラ君、元気でな。この名で呼ぶのも最後か、名残惜しいよ。
 新しい飼い主にたらふく食わせてもらって幸せになれ」

聞き捨てならないジャスタスの言葉に、リラははっと食らいついた。

「新しい飼い主ですって!?どういうつもりです!」

ピグミークローンの男はサディスティックに口の端をゆがめ、
リラの頭の後ろを捩じるように土の上に押さえつけ直した。

「おっと説明している暇はない。
 毎度お馴染みの仲介業者が飼い主との交渉をつけ次第、
 速やかに君を受け渡す手はずになっているのだからな。」

「そんなことされて堪るもんですか!お離しなさいってば下衆野郎!」

「はっはっは、暴れろ暴れろ。そろそろ薬が回るころだろう」

悔しいことに男の言葉通り、鎮静剤らしき何かは強烈な効果を示し
彼女はあっけなく背負われて、テイクアウトされる羽目となった。
あいかわらず線香臭い祀り岩の島に帰るなり、
颯爽と桶に放り込まれて
上げたてのそうめんみたいにじゃかじゃか無遠慮に洗われ
問答無用で着替えもさせられ
そんなわけで、一時間程度後には、ここ数年ありえなかったくらいぴかぴかになって
一室にぐったりと転がされていた。
ありとあらゆる方法で厳重に梱包された上で転がされているのはもちろんだが
全身の筋肉がひとつ残らず緩んでしまったようで、動こうとしても指先一本も動かせない周到ぶりだ。

(本当に合法薬物なんでしょうね…)

リラともあろうものが、なにげない日ごろの姿ににごまかされていたらしい。
ジャスタスがどういう奴だか、ついうっかりしていたのである。
いつもはどこかしらケチっているから、そんなに難敵ではないが
アレは良心の呵責なんてものは、無縁の男だ。
本気になって持てる手段を総動員すれば、このくらいのことは容易く行う。
どうせまた、出会いがしらがそうだったように、慈善事業だとか豪語しているのだろう。
ただの人身売買のくせに。

しかし、困った。
鎮静剤を使われた時はたいてい、テトラあたりの手を借りて逃げていたものだが
最近、祭りに乗じた引き渡し所の脱走の噂も聞いたし、彼は忙しいのではないだろうか。
ジャスタスの手際から考えて、バイヤーが迎えに来るまで3時間足らずだろう。
それまでに少なくとも動けなければいけないが、
枷は(今までの経験を生かして)手首から肘の関節までを固める長いもので
関節を外したくらいでどうにかなるものではないし、
こんな夜半に、まして他人の家の中を、良心のある人が通りかかるはずも…

「リラ女史ー?」

鳥目には暗すぎた部屋の中に、ふすまが開いて光が射した。
まぶしさを堪えて反射的に威嚇してみせると、
きょとんとした表情の、コガネグモの少女が
光と影の隙間に佇んでいるではないか。

「…子蜘蛛さん!」









救世主のように現れたその小さなコガネグモの友人は
黒と山吹色のうまみ成分溢れる髪をおかっぱに揃え
いつでもトレードマークの黒色のジャージに身を包んでいる。
幸運だった。同世代のリヴリーと比較すれば小さい身体は、
夜闇にうまく隠れてくれたのかもしれない。

「丁度良かった!手を貸していただけません?あのボンクラ坊主が…」

皆までいうまえに、何を合点したか、アルケニーは行動に出ていた。
小さな体でくるくるとリラの周囲を回り、外せる部分から器用に作業に取り掛かっていく。

「真夏の夜にローストターキーごっこなんて、季節外れでありますよ!
 えーと、どっちのリラ女史でありましょう?」

「平日の4時にのうのうとチーズケーキ食ってる阿呆じゃないほうの私です。
 こんなんじゃ逃げるに逃げらんないですよ。助かりました」

足首は痩せているので、手さえ借りれば簡単に抜けた。
首は鎖で繋いであったので、輪のひとつを懸命に押して外した。

「そっちはやるだけ無駄ですよ。
 足と首が自由なら御の字です。ありがとうございます」

「お礼には及ばないでありますよ!それより、どうしたものでありましょう。
 実は自分も出られなくて困っているのであります。」

聞けば、ここを食糧庫と固く信じるアルケニーは(リラがそうだと教えたのだ)
冷やしておきたい食べ物をさっそく運んでいたところ
ジャスタスに見つかるとすぐハエタタキでばしんされてしまうのだと言う。
ここはひとまず逃げたほうが良いのは
ほんわかした彼女でも流石に察しているようだった。
しかしどうしたものか。
何の必要で進化したか知らないが、確かにジャスタスは無駄に手練れだ。

『目蓋に裂傷…うん、各4つだ。それからリヴリーブックの破損。
 …そうなんだよな、バイオレコードもないんだよ。
 だから飼育に若干注意が…流石に偽造は厳しいか。そうか。』

電話の声が漏れ聞こえるのからしてこの部屋は確か居間の隣の寝室。
今なら中庭から逃げるのが一番近いが、
コの字型の住居構造からして、廊下に出た段階で見つかるのは目に見えている。
部屋の中にも当然窓はない。窓のある部屋にリラを閉じ込めるわけがない。
壁に身体を寄せ、支えるようにして起き上がると、
音を察したのか、壁の向こうの声が変わった。

『じゃあ、違反は承知の上でもカンボジャクを欲しい飼い主だな…
 …待ってくれ。なんか音がした。後で掛け直すから。うん…うん。わかった』

アルケニーが声をひそめて手を貸す。

「気付いたでありましょうか?」

「奴の右ポケットに手枷の鍵があります。私が注意を引きますので、その間に。」

ふたりはこくりと頷きあうと、足音を忍ばせ、襖を挟む位置にそれぞれ進んでいく。
がらり、黄色い明かりが部屋に差した。

「あのなぁ、今さら無駄な足掻きは…うわぁ!?」

ジャスタスが入ってくるのを見つけるなり、リラは彼の膝下にきっちり入るように
体を屈めて突進していった。
ジャスタスの体勢は完全に(いつもやられるとおりの)ヘッドバックには対応していたが
それだけに足元がお留守だったのだ。バランスを崩して真後ろに倒れる。
ポケットから飛び出た鍵を、アルケニーはしっかりとキャッチする。

「このチビ、さっき潰したはずじゃ…」

「自分は伊達に遺伝子組み換えじゃないであります!」

しかし敵もさるもの、転げたままでリラの牙をかわし、
片手に携えた電話帳の角で彼女を撃退する。
覆い被さるようにリラが庇いに来なければ、
返した裏表紙でアルケニーはぺしゃんこだったかもしれない。

「子蜘蛛さん、後ろへ!」

アルケニーのもみじの指が尾羽根をつかんだのを確認し、リラはようやっと守りから転じた。
よろけるように跳ねて一旦壁へと退却、このまま戦っても勝ち目はない。
壁を背にアルケニーを守りつつ、角に追い詰められるのだけは絶対避ける。
アルケニーは揺れる背中の上、全身で鍵にしがみつき、鍵穴と奮闘していた。

「どうしました、電話帳なんか振り上げて。
 おやりなさい、それで殴って御覧なさいな!出来ないんでしょう。
 売り物が痣になるのがお嫌だからですか?
 それともまさか、ヘロヘロでやせっぽちのリヴリーなんかに負けるのが怖いですとか!」

ぺろりと舌を出して嘲笑った。
そこであえて余裕ぶって見せたのは、ひとつにはジャスタスが挑発が苦手なのを知っていたから。
そしてもうひとつには、彼女のいちばんの凶器はいつだって口の中にあったからだ。

「…黙れ!」

「そうですか、では、舌でも噛み切ったら静かになりますかねぇ。
 傷もののリヴリーってどれだけ単価が下がるか存じ上げませんけれども!」

その笑みがどれほどジャスタスの神経を逆なでするか、リラはよく心得ている。