けんか

「ああ!」

シンオウ地方、ハクタイシティ。
歴史深く、静かなこの町のATMの前、人目をはばからず叫ぶ研究員の声が響き渡る。
往来を行きかう人々が怪訝そうな視線を向けるのも気に留めない様子で
彼は厳密に切りそろえたダークグレイの髪を掻き毟りながら、記念すべき瞬間を迎えていた。

「3000円…3000円だとぅ…?信じられん、そこらのガキのお小遣いかっつーの!」

今月の彼の生活費、どころか全財産が3000円を切ったのである。
わなわなとふるえる手で通帳を握り締めても
紙が波打つばかりで数値が変化する訳ではない。

とかく危ない橋を渡って生きる彼の人生、幾度かのピンチはつきものだったが
このごろは特に悪いこと続きだった。
半年前、化石系ポケモンのついて書いた論文が某博士の目に止まり
ハクタイシティの化石掘りツアーに招待されたところまでは良かった。
帰りの旅費は、出てきた財宝でも売れば稼げるだろうとタカを括っていたのが運の尽き。
向かった先の地下通路は、ちょうどハクタイを活動拠点にしていたギンガ団の採掘のおかげで収穫ゼロ。
何も手に入らないまま途方に暮れていたところ、なんとスリにあって財布を丸ごと盗られ
さらには働き先のニビ科学研究所から電話があり
なんでも経営不振のため生物学研究チームの人員削減を行うのだとか…つまり、クビである。
奇跡的に旅行鞄の中にしまってあったキャッシュカードに望みを託しては見たが
先日、定期預金に入ったばかりだというのもあり、預金残高はこの有様である。
今帰っても、博物館の寮にはどうせ入れない。旅費の1000円がパーになるだけだ。
退職金を支払われるのを待てばいいのだが、時間がかかる。
それまで3000円でしのげというのである。彼と、彼のパートナーの生活を。

ため息をつく彼をを、何かの柔らかい感触がぽふぽふ叩いた。
振り向けば彼の(唯一といっていい)手持ち、

「ニャー!」

と、鳴いたがニャースではない。メタモンである。
元気づけようとしているのか、おでこの小判をパチンと叩けば
チャリチャリ景気のいい音をたてて、それらが地面に散らばり、そして、散った。
ねこにこばんは、所詮幻影なのである。

「…その毛並みは何だ?まるでフェイクファーもいいとこじゃないか」

研究員は冷たく言った。
お金の音で苛立ったのもそうだが、もう一つの悩みの原因がメタモン自身にあったからである。

メタモンは、研究の相棒でもあると同時に、副業のパートナーでもあった。
研究員が言葉巧みにトレーナーを誘い、メタモンを売りつける。
金と引き替えにトレードされたメタモンは、トレーナーに気づかれないうちにボールを抜けだし
研究員の手元に戻ってくる。簡単な商売だ。
しかし、これが最近上手くいっていなかった。
メタモンの変身自体は完璧なのだが、今一歩、毛艶が足りないのである。
普通のポケモンを見せたくらいじゃ、たいていの人からお金は引き出せない。
しかも、ギンガ団が町をひっかきまわしていたのが治安の悪さに拍車をかけて
おかげで人々、特にトレーナーが警戒しきりで、そう簡単に話に乗ってくれないのだ。

「何も今スランプにならなくったって…そもそも、お前が最近ヘマばっかりだからいけないんだぞ!
 ひとつでも当たりがくれば、こんなに困ることはないんだ。ほら、支度しろ」

しょぼくれるニャースの背を乱暴に撫でつけ、研究員はさりげなく姿勢を正す。
丸い眼鏡越しに狙うのは、いかにも可愛いものが好きそうな少女のトレーナーである。

「しっかりやれよ。次失敗したら、繁殖屋に売っちまうからな!」

そうして、苛立ち任せに放ったその言葉がメタモンにどれだけのショックを与えたか…
自分のことでいっぱいいっぱいの研究員は、知る由もなかった。







繁殖屋に売る?この自分を?
まさか、信頼していた研究員にまでそんなことを言われる日が来ようとは。

モンスターボールの中、ジャスタスのプライドは完膚なきまでに叩きのめされていた。

メタモンは、繁殖屋からの需要の多いポケモンである。
逃げ足の速さ、捕獲や選別の難しさから
優秀な遺伝子を持っていれば持っているほど高く売れるのだ。
その点、ジャスタスが研究員のお墨付きであるのは間違いない。
だが、とびきりの高値で奴等に買われたが最後、そのメタモンにはもう自由などない。
大体が劣悪な環境で、下手をすると一生瓶詰にされて
雌雄種別問わず様々なポケモンと死ぬまで交尾させられるのである。
研究員もジャスタスも、ロケット団で嫌になるほど見た光景だ。知らない筈がない。

「恵まれないポケモンを助けてくれませんか」

次、失敗すれば繁殖屋だ。
研究員の声を聞きながら、ジャスタスは考える。
この男は大変金にがめつい。
もしかすると、冗談でなく本当に自分を売るかもしれない。いや、売るだろう間違いなく。
なにせ今日食べる飯にも困っているのだ。
合理的にして欲望に忠実なことではピカイチなのだから
売られるメタモンの心境なんてそんな感傷的なことにいちいち思いを馳せる訳がない。
……ましてや、元はロケット団に身を寄せていたこともある奴である。

どんどん悪いほうに傾いていく妄想を抱えながらも
悲しいかな、種族特有の鉄面皮は容易に感情を映してはくれない。

「…おいで、プクリン!」

研究員が優しいモードの声で、出番を知らせる。
精いっぱい気量よくメタモルフォーゼを行ったが、
表情がひきつってしまったのが悪かったか
輝きのかけらもない少女の表情に、ジャスタスは自分の失敗を悟ったのだった。





























シンオウ地方、ハクタイシティ。
文無し、宿無し、運も無し。
件の研究員は、なんとまだ生き延びていた。

木の実の成る木を見つけた。
雨のしのげる、仮住まいの洋館も見つけた。
今のところ食うにも済むにも困っていない。なんともしぶとい彼である。
退職金ももうそろそろ振り込まれている頃だ。どこかまともな住処を借りて、住所を手に入れるだけの資金はもう彼の手のうちにある。しめたものだ。今までもそうしてきたように、再就職すればいい。一応ニビ科学博物館に勤務していた実績ある(そして綱を渡るような危うい人生設計にも慣れた)身分だ、働き口は必ずある筈である。

しかし、いくら生活が満たされていても、彼は一向に動こうとはしなかった。ATMを見に行こうとすらせず、ひたすら住居に引きこもっているばかりだった。相方のいない虚しさは、彼を完膚なきまでに叩きのめしていたのである。生物学で博士号まで取った結果がこの有り様かと思うと情けない。
元はと言えば、彼の失言が原因なのではあるが。

「……本気で言うわけないだろーが」

苛立っていたとはいえ、メタモンに向かって繁殖屋の話なんか、間違ってもするべきじゃあなかったのだ。
メタモンがバトルにおいて役に立たないこと、そして繁殖用と見なされるという現実は、研究員の思っている以上に鋭く、メタモンの心を切り裂いたのである。ジャスタスと研究員は切っても切れない特別なパートナーだったから……いや、だからこそなのかもしれない。
ぽろりと零した一言が、メタモンにどれだけのリアリティを伴って受け止められたことか!

認めたくない現実から、彼は学問に逃避した。
化石掘りで見つけた数枚のプレート(どうせたいした値段では売れない)を題に、前から構想を練っていた論文の制作である。再就職が掛かった論文でもあった。
次の学会までにどうしても仕上げたい。
日の出ている間は、新聞紙の裏に思いつくままの内容を書き付け、夜になるとノートパソコンを開きタイピングに打ちこむ。バッテリーが切れたら、電源を求めてファミレスに行く必要がある。浮浪者の見た目では、中に入れてもらえるかどうかも解らないが……現実から離れたい一心で、研究員はディスプレイに食らいつく。
踊る文字の列。論文はじわじわと、しかし着々と仕上がっていく。カタカタと規則正しいキーボードの音が、疲れ切った彼の眠気を誘った…

いったい何時間眠っていたのだろう。
自分の寝言で目を覚ました研究員は、突っ伏していた机の上からゆらりと頭をもたげた。どれだけ時間が経ったのかわからないが、窓の外は漆黒の闇である。ディスプレイの目に痛い白光が、まるで結界を作っているかのように研究員を照らし出していた。バッテリーが切れていないのは何故だろう。

恐らくその理由であると思しき生物が目の前に浮遊していた。

「ロトム……」

不思議な音を立てながら、そのポケモンは赤いボディを静かに回していた。ヤジロベーを彷彿とさせる丸い外見はつやつやしていて、プラズマでできた一対の翼でつり合いを保っている。電気属性の生き物というより、電気そのものなのではないかという気さえするくらいだ。
好奇心旺盛な瞳でぱちくりとこちらを見つめ、頭痛を招く笑い声を立てた。
研究員は机の上に放り出してあった空っぽのモンスターボールに手を伸ばす。ゆっくりとそれをディスプレイに近づけると、ぽんと音がしてロトムの姿が消え、続いてパソコンの電源も落ちた。


……生きていける。
研究員の顔が、久方ぶりに綻んだ。
髭を剃ろう。服を洗って島を出よう。論文なんか片付けるのは後でいいじゃないか。ジャスタスを探しに行くのだ。立ち上がる、椅子が倒れる、床に投げ捨てられた生活用品を蹴飛ばすような足音、ろくに間もおかずシャワーの音が屋敷に響く。
瞬く間に身支度を終えた研究員は、まだ朝日も昇らないというのに屋敷を出た。