げんえい

「あれは何だ」

ニンゲンの声だ。


耳慣れたその優しい響きに、遠くなりかけていた意識を取り戻す。
決して小さくはないその体をなんとかして目に留めてもらおうと
めいっぱいに彼女は首を伸ばした。
決して野生のものではありえない…そして新聞に載っていたとおりの
メスのジュカインの姿を認めたトレーナーの男は、息を呑む。

「あれは、何だ」

きっと彼女は、それはそれは美しいポケモンだったのだろうと、男は思う。
鮮やかな緑色だっただろう皮膚は茶色に枯れ、傷を負っていない部分を探すほうが難しかった。
損傷も酷い。密林最強と言われるゆえんの腕の刃などは全て無残に刃零れして
背中の黄色い胚胞も全てしなび、抵抗などできそうもない。
それに…それに、新聞で男が読んだ話が正しければ、このジュカインのトレーナーはもう…

歩いているというよりもよろめくように近寄ってくるジュカインに男はあわてて肩を貸した。
風が吹けば倒れてしまいそうだった彼女は、安心したような表情で
ゆっくりと身を預けてくる。やせ衰えた体を受け止めるのはいともたやすい。
運の良いことに、ここはチャンピオンロードの出口。
四天王戦に向かうため、シンオウ中から集まったトレーナーのために
ひときわ大きなポケモンセンターが用意されている。

「頑張れよ、いま助けてやるからな…」

男はできるだけ楽なようにジュカインを担ぎなおそうとして
腹部の膨らみに、思わずはっとして手をやった。
どんどん浅くなっていくジュカインの呼吸に気を取り直し
額に汗をしながら、ポケモンセンターへの道のりを歩いていった。

朝日が昇っている。彼女のくっきりとした大きな瞳から、涙がぽろぽろ零れた。
長い間、洞窟の中に閉じ込められていた目に、それらはあまりにも眩しすぎたのだ。
















シンオウ地方、チャンピオンロード。
四天王に挑む前の試練として、腕に自信のある者ならは必ず挑む道だ。
名立たるトレーナーが口々に「懐かしい」と語るそこは
たくさんの足跡に拓かれ、踏み固められ、しかし険しく
きょうも、若者たちとそのパートナーの実力を値踏みしている。
そんなチャンピオンロードの明るく目立つ順路の他に
多くの脇道があることは意外に知られていない。
特に、深い霧の層の中にたった一つだけある入り口は
霧払いを使わなければ見つけようのないほど難しいものである。
たとえ霧払いを使ったとしても、真っ赤なペンキで「死亡事故多発・立ち入り厳禁」という文字に行く手を阻まれるだろう。
そんなこと書かれなくたって入り口には不自然に丸い大岩が鎮座しているため、
どのみち入れはしないのであるが。

だが、もしもそこに霧払いと怪力を使うポケモンを手持ちに連れているトレーナーが来たとして
彼が入り口を発見できるほど注意深く、
そこで死亡事故があったと聞いても止まらない強い好奇心があって
さらに注意書きを無視するような図太い神経を持ち合わせた命知らずな大馬鹿者だとするならば…


そんな、人工岩が塞いでいる筈の地点で本日、岩がガラガラ残響を響かせたので
件の洞窟の奥では、野生のガブリアスが激怒していた。
湖畔の岩場を根城に暮らす彼は、平均より優にふたまわりは大きいだろう体躯を
猛り狂わせてげきりんを飛ばし、周囲のポケモンたちをおびえさせた。

野生のガブリアスは珍しい。
フカマルの系統というのはとにかく好戦的な種族で、
共食いや縄張り争いなどによって、常にお互いの数を減らしまくっているからである。
強い個体は、何匹もの「ちょっと強い個体」によって袋叩きにあうと相場が決まっている。
だがしかし、それも最終進化系までいくとなると話が違った。
このガブリアス――チャンピオンロードの霧地帯にを調べた冒険家バスチアン・コントラーリに
ちなんだ名を付けた研究者もいたが、彼も研究対象に食われて死んでしまった――に刃向かう者は
少なくともこの近辺には一匹足りとて居なかった。
彼は、見た目からして明らかに獰猛で、普通のポケモンなら戦意喪失するだろうし
それで気分の高揚する奴らは軒並みやられてその腹に収まっているからだ。
おかげさまでバスチアンは、餌の乏しいチャンピオンロードにおいてさえ
マッハポケモンにあるまじきくらい丸丸と太っていた。
…フカマルという生き物は、とてもカロリーが高いのである。

チャンピオンロードとてただの洞窟。天井は頑丈な岩が守っているとはいえ、崩落することはままある。
平穏な(彼にとって)テリトリーが騒がしくなるその下品な音は、たとえ自然現象でも機嫌が悪くなるが
それが身の程をわきまえない愚かなニンゲンか、
それとも偶に急襲をかけてくるルギアの若造の立てる音だったとしたならば。
想像するだにガブリアスは低く唸り、振り回した尻尾は水辺のコイキングを数匹跳ね飛ばした。
――どちらかだったら八つ裂きにして食ってやる。
そう考えながら顔をのぞかせた彼の顔に、不意打ちをかけるようにぶつかったのは
ほんとうなら入り口を守っていなければならない人工岩だった。


「ハッピー!!!」

いや、ハッピーじゃねーし。
と、ガブリアスが思ったかは知らない。きっと思ったのだろう、その表情から察するに。


砕け、顔面からパラパラ落ちる元・大岩を通し、ガブリアスは信じがたい物を見た。
あたかも紙風船でも扱うように軽々と、大岩をトスした怪力の持ち主はだれあろう
フリルのようなふわふわの羽毛を肩に生やした、身の丈1.5mの愛らしい桃色生物だったのである。
悲しみの心波をキャッチすると、どんなに遠くでも駆けつけて卵を食べさせるという
アグレッシブ極まりないことで有名なポケモン――ハピナスであった。
威力と、原因。あまりに解離した現実に茫然としてしまうような光景だが
もしかするとそれも高度な心理作戦だったのかもしれない。
ハピナスは、唖然としたガブリアスの姿を認めると、黒目がちな瞳をキラキラ輝かせ

「ハッピィー!!」

遊ぼうと言わんばかりに、体から大量のふぶきを撒き散らしたのである。
流石のガブリアスといえど、これにはたまったものではない。
氷の使い手はこの界隈では少ないが、ドラゴンに加えじめんタイプの彼にとっては大の弱点である。
いくら強いガブリアスといえど、こんな狭い場所で吹雪をびゅんびゅん撃たれては太刀打ちできない。
急いで手近な岩場に身をひそめ、地面を踏みしめ地震を起こす。
岩壁のもろくなっていた部分がたちまちばらばらと崩れ、
ハピナスはゴムまりのようにぴょんぴょん転がった。


「うっわああああ!」

その拍子に、副産物が落っこちてきたようだ。

大きなリュックを背負い、自転車とともに地面にたたきつけられたのは
浅黒い肌をした、快活そうな少年だ。ハピナスのトレーナーである。

「ふぶきで遊ぶのはやめろってば、ジュジュ!
 早くボールに戻れよお願いだからさぁ!」

彼はただでさえ天然パーマの黒髪をぐちゃぐちゃかきむしり、地面を必死で手探りしている。
なんでもなおしのボトルがそばに投げ出されているところをみると
ハピナスは、洞窟のなかでクロバットあたりと戦って、あやしい光を食らったようだった。
バッジを制覇したトレーナーにポケモンが従わない理由などそのくらいなものだ。

「せめて…ええい、気晴らしはだいもんじでやれーっ!」

幸いにして、ジュジュはその提案を気にいったらしい。
口をすぼめ、こんどは所かまわず大文字を乱発している。
これもかなりの大技だが、だいもんじなら一方向に進むから、このほうがよほど安全だ。
その間になんでもなおしを持ち直した少年は、そっとハピナスの背後をとると
しゅっしゅと、これでもかとばかりに薬を吹きつける。
いささか間の抜けた音を立て、あたりにスプレーの残り粉が散った。

「はぴ?」

ほんの一瞬正気をとりもどしたハピナスの背をボールが捉えれば一件落着。
彼女はあえなく御用となる。

「ふははは!ハピナス、ゲットだ」

ハピナスが思い通りになるのが、そんなに珍しいことなのだろう。
若きトレーナーはすっかりご満悦の様子で、胡坐をかいては高らかに笑う。
もちろん、この状況はガブリアスにとっても大変嬉しい。
邪魔者はもう居ない。思う存分侵入者の対処に集中できるのだから。

「……ぜ……?」

ずん。
響いた足音は、トレーナーの喜びをぶっとばすには十分すぎる演出だった。

巨竜の影が彼の体をすっぽり包む。
トレーナーは目を見開き、声も出ない様子で、無意味に手足をばたばたさせた。
立ち上がるにも足場の悪さにすってんころりん、すりきれたデニムにさらに裂け目を作るばかり。

「ま、まってくれ!戦うつもりはなくって、おれは、その…」

人の力ではびくともしない岩の壁に背を擦りつけ
辛うじて出た裏声も、ガブリアスの嗜虐心に火をつけるBGMに過ぎない。
第一、ガブリアスは命乞いが嫌いだ。
一噛みに葬ってやろうとばかりその名の通りの牙の並んだ口を大きく広げ
そこでトレーナーの人生は終わったはずだった。
彼の腰のモンスターボールが勝手に転がり、中のポケモンが彼をかばおうとさえしなければ。

ガブリアスの鼻腔に柑橘類を思わせる、爽やかな香が触れる。
鮮やかな緑色。密林最強と言われるゆえんの腕の刃は少し触っただけで切り裂かれそうに鋭く
激しい黄色の威嚇色にもなる胚胞が、熟れた果実のように背中を彩る。
身を低くし、尾の葉っぱを広げて警戒の姿勢を取る姿勢は
どこか艶めかしくもあり何よりとても勇敢で
くっきりとした瞳は物おじせずに、自分よりずっと巨大なガブリアスに立ち向かっていた。

「ぎゅい!」

大きく開いた顎を邪魔に、一度は口を閉じたガブリアスが
少したじろいだように見えたのは気のせいだろうか。

「あ、あれ…?」

いつまでたっても牙が貫きに来ないのを不審に思ったか。
次にトレーナーが目を開いたとき、ガブリアスから怒りの色は消えていた。
まるで「もう二度と来るなよ」とでもいうように低く唸り、
尻尾を大きく振り回すなり、洞窟の奥に引き返していってしまった。
その様子はどこか苦々しげではあったが、確かに彼の意思による撤退であることに間違いは無いのだが…
…重い足跡の響きの響く中、すっかり拍子抜けしてしまった取り残されたトレーナーは
ややあって、抜けかけた腰を叩いて立ち上がる。

「…行こう、ドルテ」

隣できょとんと首を傾げていたジュカインをボールに戻し
少年はボロボロの自転車を立ち上げ、元来た道を戻って行った。