Prologue. はじまりのおわり
「じじょー…?」
真っ白な目をしたオーガが不思議そうに私を見上げる。
用紙に自分のことを記入し、事情の説明を促したが。
彼は字が満足に読めなかった。
あまり飼い主が話しかけてやって居ないのだろうか。
レベルの割りに精神が発達していないのである。
どんな趣味だか知らないが首には太くて黒い革の首輪が巻かれている。
虐待されているのかと心配したが、
飼い主さんがくれた!
…と、彼は嬉しそうに言う。
毛並みもまずまずで、空腹度もストレスもまずまずに満たされていて。
薄紫の体色は、角度によっては桃色にも、空色にも見える。
何度も調整しなければこうはならない。
飼い主は不器用な愛情を傾けているのだろう。
本当にまずまずの育て方をされているようだ。
私は半ば諦め、彼を連れて準備室を出た。
「私はね」
息を吸い込み、できるだけ簡単な言葉を選んで話す。
研究員同士で話すときとはまるで違う神経を使う
「キミがどうしてこんなことをしたのか、知りたいだけだよ」
低い草を踏みながら歩く。私の白衣が風に翻るのを、彼はじっと見ていた。
聞いていなかったのかもしれないと、私が思い始めたころ
「ぼくの大事なひとが、やりたいってゆったから」
ようやくぼんやりとした、抑揚の無い声が応えた。
「円ちゃんのこと?」
私ははじめて振り返り、彼を仰いだ。
オーガは長身でいかつい。
だが、幼子のようにデリケートなリヴリーでもある。
ことにこの個体は。注意深く尋ねる。
また途方にくれたような顔つきをしている彼の答えを待ったが、
どうやら彼は『ツブラ』という飼い主の名前を
初めて聞いた言葉であるかのように捕らえ、迷っているようだった。
「…キミの飼い主さんのこと?」
「ううん。チューってゆうんだ。ハナアルキの。
成功したら、それでチューはよろこぶんだ。だからね、やった。」
興味深いことだ。
研究所に居る配布前のリヴリーは自我が未発達なので
(なにせ人語も解さないのだ。動物同士が鳴き交わす程度の
曖昧なコミュニケーションを操るのみの彼等は、
他の鳥や、ひいては魚などと、まだ変わりない)
そのような複雑な執着を観察できる機会は、
ほんの下っ端研究員の私には願ってもない機会だった。
ミュラー博士が留守で良かった。不謹慎ながら心底思う。
そうでもしなければ、私なんかに
この面倒で面白いリヴリーの応対が押し付けられるはずが無い。
「もちろん、飼い主さんはいっぱいしんぱいしてくれたけど。
だけどいいと思って。
成功したらさ、GLLの壁はぜーんぶ、
飼い主さんにあげるつもりだったんだ。
城ん中いっぱいに、好きなだけおっきな絵をかけばいいよ」
円。彼の飼い主。
彼を捕獲してから、まだ飼い主には連絡していない。
中学生だという。プロフィールを見れば
なんとも気難しそうな顔をした女の子で、光沢紙越しに私を睨んでいた。
まぁ、そう大したことでもないし、軽い注意で良いのだけれど。
私がちらりと思っていると、だしぬけに彼は三つ目の理由を呟いた。
「チューにはパークをあげる。お城が飼い主さん。
んでね、あまった世界は、誕生日にあげたい子がいるんだ。そいだけ」
「それは誰に?」
彼は無視した。
私は特に問い詰めはしなかった。
「大きなプレゼントだこと」
「だって、三人でわけるんだよ。すぐたりなくなっちゃう」
言葉も頭も足りていなかったが、彼の言いたいことは分かる。
しかし、茶番でしかなかった。この矮小な生き物の心は、
愛情など理解できるように作られてはいない。
私は彼の高い頭を見上げる。
彼の頭の後ろに広がる空を仰ぐ。
私の茶色に脱色した前髪越しに。
永遠に青い、模造の空である。
私たちが、科学の力で作り上げた模造の世界の出来事である。
そこで模造の生き物が話すのは、模造の愛情でしかないのだ。
それは愛情とは言わないのだ。
だのに、彼はかたるのだった。
「ぜんぜんたりないんだ」
三人のことが大好きだ、と。
その気持ちを伝えるには、全然、ぜんぜん、ぜんぜん足りないのだと。
たとえ、世界を丸ごとプレゼントしたとしても。
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