やきもち

(遅い)

バスチアンは、苛立っていた。
時は昼、それでも暗い怪物の森だ。森のはずれの大きな土壺のようなオブジェの周りを、落ちつきなく右に左に落ちつきなく歩き回る。以前はトックリバチの巣だったその場所は目立つので、待ち合わせにもよく使われていた。彼の目的もまさしくそれで、しかし約束の時間になってもなかなか待ち人が現れないので苛立っているのであった。
昨夜、隣のテリトリーでラッドラックの死体が発見されたというのである。どうやらハンターによる殺しではなさそうで高位モンスターともなれば恐らく誰もが注目している事件だろう。抗争に発展しそうな予感もあるので、バスチアンも探りたい。
厄介なのはそのラッドラックが、バスチアンと険悪なアルゴルの右腕だったことだ。いち早く内情を知りたいが、かといって先んじて様子を見に行けばあらぬ嫌疑を掛けられるのは目に見えている。そこらじゅうに網を張っている情報屋の手を掻い潜れる実力が必要だ。そういった技量の持ち主はバスチアンの知る限りでも、数えるほどしか居なかった。その上、手駒として使える範疇の者となると。

かさり、と音がして頭上から木の葉が舞い落ちてきた。見上げると、梢が大きく揺れており、マゼンタ色のポニーテールがぴょこんと落ちる。続いて「ぷはっ!」あどけない青年の顔が天地逆さまにあらわれた。金色の目をくりくりとさせた顔はなんとも可愛らしい。
待ち人とは、この男のことだ。名を、ニコラスという。

「ごめんなさーい!遅刻しちゃっ……わわっ」

「遅いッ!」

彼が全てを言いきる前に、太い蜘蛛糸が幾本も飛びかかり、頭を掴んで引きずり落とす。べったりと地面にへばりつくニコラスの前にバスチアンは立ち塞がると、その下唇を掴んでぐいと引き寄せた。

「僕ちゃんがわーざわざ指名で呼んでのに
 一体どーこで油売ってやがったのかな、ああ?」

「ふみまひぇん、寂ひいおもいさせて」

顔を乱暴に揺すられて、ニコラスはふがふがと覚束なく答えた。同じアルゴル同士とはいえ、その関係はとても対等には思えないが、しかしニコラスはどことなく嬉しそうな表情すらうかべている。彼はこの、鼻のくっつきそうな距離の近さが幸せなのだ。甘えたような上目遣いでおずおずと機嫌を窺ってくるニコラスに、バスチアンはぎりぎり牙を軋らせたが

「済まねーのはこちとら百も承知なんだ。
 言い訳くらいは聞いてやらなくもないから
 この機会をありがたく頂戴して喋れってんだよ。ハイはじめな」

だが、それ以上の咎めだてをしようとはしなかった。
バスチアンは、理由も無くすりよってくる相手というのを信用していない。それは当然ニコラスにも当てはまったが、一応はアルゴルである彼の実力に関しては相応の評価を下していた。そして何より、そのポジション。まだ年若く、少々変わり者だったが、なぜか彼の素情は謎に包まれていた。よそのアルゴルのように部下を持たず、人間関係に関わる噂が驚くほど少ない。情報屋でさえ彼の行方を掴むことができないというのだから、孤立しているのは本当のところと見て良いだろう。実に魅力的な立ち位置だ。
多少の対価を払ってニコラスを操ることができるのなら、バスチアンは迷わずそちらの道を選んだ。その対価が例え自分であったとしても、適当に甘やかしてやる程度のことなら、まぁ、苦ではない。
力を込めていた手を投げ捨てるように開くと、よろめくニコラスの回復を待たず答えを急かす。ニコラスは申し訳なさそうに肩をすくめる。

「たくさん待たせちゃって、ほんとにごめんなさい……
 いけないとは思ったんですけど、その
 アグニスにご飯あげなきゃいけなかったから、手間取っちゃって」

「ア、グ、ニ、スぅ?」

バスチアンは繰り返した。
大きな意味を持つ名前を復唱するのにふさわしいだけゆっくりとした、重い声色でだ。
アルゴルたるもの常にトップの存在として意識されているべきだ。最高ならば並ぶものなく絶対のボスとして、最低ならばこの上なく憎い存在として。相手が誰であってもそうなのだから、まして下の者が自分以上に優先するものを持っている、というのは我慢ならないことである。

「何だぁ?それ」

「"それ"じゃありません!」

鼻で笑い飛ばしたとたん、ニコラスはバスチアンに掴みかかった。
白磁のようなまっさらな手がネクタイを握り、信じられないような力でもってそれを締め上げる。意外な反応だった。ニコラスの丸い眼には、珍しく激しい怒りの色が浮かんでいる。

「……アグニスは、アグニスです。"それ"だなんて言わないで下さい」

さらに力が強くなった。段を作る首元にネクタイが食い込み呼吸がひととき途絶える。ニコラスが正気を取り戻したのは、相手の喉が小さく痙攣するのを見た後だった。怯えたように手を離し、胸の前でおたおたさせる彼の姿を、バスチアンは冷やかに見据えた。
ニコラスは小さく「ごめんなさい」と言った。

「……で、誰なのよ?」

「ああ、はいっ!ええと、それは……」

襟元を正しながら、バスチアンはそっけなく促す。
粗相を咎められなかったのが逆に気まずそうな相手を見て、内心ほくそ笑みながら。今のを挽回する気持ちがあるならニコラスは何でも喋らざるをえない。いい圧力になるから、首を絞められたのはむしろ好都合である。

「あの、そんなに、知りたいんですか?」

「当然だろーが」

それがわからないニコラスではないだろう、しかし彼の歯切れは悪い。
ニコラスが正気を失うくらいの相手のことだ、権力に敏感なバスチアンが知りたくないわけではない。もうひと押し優しくしてやれば、きっと口を割ることだろう。
「他人を使ってる身分として、そいつのこと把握しときたいのは」
そう口にしようとしたのだが、相手と目があった瞬間、バスチアンはすぐにそれを飲み込んだ。ニコラスのぽーっとした表情、そしてばら色に染まった頬に気がついたからだ。
その顔ときたら……
なるほど、ニコラスが(密かに)界隈の雌蜘蛛にちやほやされるのも頷ける!

「あー、勘違いしないで欲しいんだけどさーぁ、
 別に僕ちゃん的にはぁ、てめーとアグニス?がどうとかっていうのには
 もうほんと一切興味ないんだよね!
 のろけは結構。僕ちゃんが示して欲しいのは忠誠なんだよ。お分かり?
 だいたい、アグニスとやらがそんなに大事なら、そっち行きゃあいいワケじゃん。
 僕ちゃんは、お前が何でもするって言うから使ってやってただけだしぃー
 別にオマエがいなくたって、なぁんにも困りませんから。
 ……何ニヤニヤしちゃってんのかなぁ触んな殴るよ?」

喚き散らすバスチアンの言葉を聞いているのか居ないのか、ニコラスは口元を満面の笑みに歪めながら、今度は優しく手を伸ばした。バスチアンは頭に触れられるのが大嫌いである。特に耳元は急所でもあるため、軽く頭を振って避けたが、ニコラスは逃げ遅れた髪にくるりと指先を絡めた。

「だってなんか、バスチアン君……ヤキモチ、妬いてくれてるみたいで」

はぁ、ととろけた語尾に、バスチアンの背にぞっとしたものが走った。

「……むしろそいつにお前を押し付けてー気持ちで一杯だよ」

「心配しないでください!僕、アグニスもバスチアン君も
 心の底から愛してますからっ」

「いやだから、そーゆーしょっぱいアイジョー的な問題じゃなくて」

「嬉しいです」

小首を傾げ、ぴしゃりとニコラスは言い切った。バスチアンはあとじさる。
ニコラスはぴったりと寄り添う。バスチアンは押し返す。ニコラスは手を握る。
自分自身にバスチアンが興味を持っていないことをちゃんと心得ているのだろうか。彼はどうやら、秘密を人質に会話を続行することを学習してしまったようだった。あまりに明後日の方向に転がっていくコミュニケーションに相手がとうとう顔を引き攣らせてしまったころ、ニコラスはえへ、と天使の笑みを浮かべると

「バスチアン君はお塩じゃなくて
 お砂糖みたいに甘ぁーいラブが好きなんですよね、任せて下さいっ!」

「……お前の耳ってステキに節穴だね」


その後、バスチアンがスパイを別の者に依頼したのは、言うまでも無い。