はじまりの日 チューヅの場合

その日の朝は別にいつもと変わりなくて、俺は自分が今日生まれるんだなんてこれっぽっちも感じてやしなかった。
たとえ、誰かがそう教えてくれたとしたって、実感もわかなかっただろうし
第一、俺にはそういう友達みたいなのはひとりもいなかった。

配布を待つリヴリー達が普通そうするように、俺はケージで集団飼育されていない。
なんでも、アイランド外部からの異物に対して過敏なため、普通の空気では育てることが難しい体質、らしい。これは、リヴリーアイランドとニンゲン界が繋がったことの弊害で、ナンチャラ症とかいう名前がついているそうなのだが、俺にはよくわからない。とにかく、俺はそのナンチャラの患者であり、この研究所ではそういったリヴリーの疾病に対する研究が特別に進んでいる。らしい。

病気といっても、気をつけている限りは特に生活にそこまでの支障があるわけでもなく、
たまに吸入器なんかを使ったりしながらも、なんだかんだで生きていけている。管理される側の気楽さで、こんな大仰な装置使うことも無いだろうになんて思ったり思わなかったりもして、まぁ、そもそもその認識がちょっとばかり間違っていたことに関しては、外の世界に出てから思い知ることになるのだけど、そんなのは今話すことでもない。
そういうわけで、その日も、俺はまっ透明なガラスケースの中でいつも通りに目を覚まし、ニンゲンたちを観察してのんびり過ごしていた。
保健室に治療されにやってくるリヴリー達の多くは、外傷持ちが多い。
それから、他の研究所で行われた実験に使われたリヴリー達。
俺のように、ほぼ住み込み入院の奴ら。
隣のケージにいた奴は、病状が悪化して廃棄に回されたかもしれない。上のケージにいた奴は、うまいこと回復して配布に回されたかもしれない。一文字違いで大きく明暗は分かれる。残酷なようだが、どんなリヴリーにも突き付けられている運命だ。俺はそれらを、ちょっと違う角度で目の当たりにしてるってだけで。

なかなかに賢い考察をめぐらす俺の視界をニンゲンの顔が、ぬっと出てきて遮った。
――何だよ。またお前か?
はじめてではない光景だ。ニンゲンのメス。
奴は、ここには何度も来ている。たまにそういう奴がいるのだ。研究員かと思ったがそうではないらしい。珍しいことではないので俺は(通心してないから通じないにしても)心の中で思った。
――よう。
ガラス越しのメガネ越しの眼差しは、俺には少々歪んで見える。一度見つめ合いだすと、俺らはしばらくの間、見つめ合うのが常だった。
だが、その日ばかりは数十秒も経たないうちにニンゲンはガラスから離れて行って、のこのこと研究員を呼んできた。俺は息が苦しい訳でもなかったし、自力でナースコールするくらいの知能はあるものだから一体全体どうしたのだろうと不思議がっていたのだが……今思えばもうちょっと勘がありゃあ、気づけたことだったのにな。

抜き打ちの身体検査だと、俺は勘違いをした。
朝晩のスキャン、血圧検査や触診は、具合の悪い時には随時行われることもあったからだ。
ところが、それらが全部終わった後で見たことも無い土の上にぽんと置かれ、俺は、頭の中に誰かの感情が流れ込むのを感じることになる。不審に思う間もなかった。テレパシーというのとはまた違って、俺の考えを邪魔するでもなく漠然ととても単純な心のうねりだ。ちょうど二文字熟語で表せてしまう程度に抽象的で、それが今は緊張と期待。

「名前を呼んでやったらどうです」

研究員が言った。そこで俺はやっと、自分が配布されたことに気がつく。
手続きの係になった研究員は看護師の資格も持っていて、俺が発作のときも装具をつけるときもずっと付いていてくれた奴なので、もう会えないと思うと少し寂しいような気がした。

飼い主になった女の顔を、もう一遍まじまじと見上げる。女のほうでも俺を見ていた。特別な関係になったからといって何が変わる訳でもなく、べっぴんに感じもしなかったし、とびきり優しいようでも賢いようにも思えなかった。

「よろしく、チューヅ」

そんな普通の飼い主が、俺の名前を初めて呼んだ。


「よう」

俺は、応える。