はじまりの日 リラの場合

その日の朝はちょっと一風変わっていて、残り少ないケージの中から独りぼっちな木箱の中に移されたのだけども、飼い主さんの所へ行くためには必要なことだと知っていたから、私、ちっとも怖くなかった。
だって私、まだ会いもしない貴女のことが本当に大好きだったものだから――

不器量なせいでなかなか飼い主さんがつかなかったのだけど、みんなにちょっぴり遅れて巣立つことができました。きちんと検査に受かったので木箱に入って、飼い主さんのとこに宅配便なのだそうです。配達のムシチョウさんが教えてくれました。私、言葉を知る前から、お母さんの素敵なことを、うんと沢山聞いていました。きっと沢山可愛がってくれて、沢山抱きしめてくれて、沢山名前を、どんなにか優しく呼んでくれるひと。どんどん掬われていく友達が羨ましくて、何故私には飼い主さんが来てくれないのか悲しくなった時もあれど、やはりこうして巡り会ったのだから運命だったのだと思います。
真っ暗な箱の中に、地面は柔らかな芝の感触。うずくまっているとまるでお母さんの手に包み込まれているようで、私はいつのまにかまどろんでいました。

ピンポーン。大きな音。私は目を覚ましました。知らないニンゲンの声が聞こえたので、急いで壁にみみをくっつけます。箱の隙間からみえたのは、きれいなニンゲンのひとでした。わたしはうれしくなりました。これからわたしはこの人に飼われるのです。はやく箱を開けて欲しい。はやく、はやく!
しかし、こんなにうきうきして居たのだけれど、なかなか待っていた瞬間は訪れませんで、気がつくとまた箱が移動を始めているのでした。さっきのひとは間違えかしら。違うお母さんのとこれに行くのかしら。不安が募ります。私はお母さんのことを考えて、勇気を出そうと思いました。「お母さん」というのは、スタッフのリヴリーさんに教えてもらったニンゲンの概念です。本当は飼い主さんとリヴリーはお母さんではなくて、変わってるよとかも言われたのだけれど、お母さんから産まれてお母さんとずうっと一緒というのが、私にはすごく素敵に思えたからお母さんと呼びたかったのです。お母さん、私のお母さんずっと一緒。
「…誤植?参ったなぁ、配達だし、初期化は無理だろ」
「プレゼントだからまずい。予約貰ってた個体だし…」
「トラブルシューティングによると?」
「バックアップを急成長させたら、夕方には」

私には解らないニンゲンの言葉が飛び交い、もしやここは研究所ではないのかしら。何故、戻ってきてしまったか解らなかったけれど、私は信じていたから、こんな想いもきっとお母さんと笑い話の種にできる日が来るんだと。通心できるようになると、ひとの言葉がわかるようになるのだって。だからきっと一番に「大好き」って言えるはず。

いつしか静かに、それに暗くなってしまった箱の外から身を守りたくて、膝を抱えて待っていました。とてつもなく長い時間が過ぎたように思えた頃、待ちに待っていた瞬間はふいに訪れたのです。

バキバキと、クレーンが天井をむしり、薄青い室内へと風穴を開けます。木っ端の散るのが収まると、「彼」はゆっくりと私を覗きこみました。
目に飛び込んできたのは、薄紫のセルロイド。リヴリーのそれとは温かさの点で違うけれど、本質的には大差のない、おもちゃ。お母さんはニンゲンの筈なのに。こちらを面白がるような、光のない表情に、私はとても強く不安を感じて

「あ、あなたが、私の、お母さん…?」

回らない舌で恐る恐る訊ねてみたけれど、返ってきたのは卑屈さと嘲りを合挽きにしたようなひき笑いだけでした。元より、彼が飼い主だなんて思っては居なかったのだけれど。
私が顔だと勘違いした大きな被り物の下から、赤い2つの光をぎょろりとさせて、彼はいかにも可笑しそうに言うのです。

「残念なことに、そのような方はいらっしゃらないようです……ここは引き渡し所ですからねぇ。ひっひっひ」