はじまりの日 ジャスタスの場合

その日は、朝からいいことずくめだった。
もう太陽も高いというのに、まだ同じケージの仲間に頭をはたかれていないし、体の大きな仲間(例えばコード番号194875)に餌を横取りされたりもしていなかった。僕は、朝一番にピグミークローンのケージからつまみあげられ、ちいさな個室のような箱の中に入れられて、ハンディタイプのスキャナのような機械で解析にかけられていた。研究員さんの操るディスプレイをこっそり覗いたときの胸の高鳴り。あの瞬間、僕は間違いなく世界一幸せなリヴリーだったといっていいだろう。だって……ついに、ついに、僕は、配布されるのだ!

フラスコから出ただけでは、リヴリーの生は始まらない。
研究所という子宮を出、ニンゲンのいる世界に産み落とされるまでが、リヴリーの真の「誕生」だ。核から手順を追って培養され、種族の分化も完了した後のリヴリーは、配布される前に研究所での集団飼育が行われなければならない。種族ごとにまとめられてケージに分けられ、一定の管理と教育を受けるのだ。これは、人工生物として極度にまっさらな状態で生まれてくるリヴリーの動作テストであり、ニンゲンという生き物に従属するための最低限のことをプログラムする期間。しつけが完璧になって、配布が開始し、飼い主に受け取られ、そこで初めてリヴリーは「産まれ」る。こういった、リヴリーの物理的誕生/本質的誕生のプロセスを奇妙だととらえるニンゲンもいるが、要するに、受精した日を誕生日とするニンゲンが居ないのと同じこと。むしろ解りやすくて、とても合理的な方法だと思う。

集団飼育の段階では、僕らに名前や島は無い。後に従属する飼い主との通心(および性格デザイン)に与える影響をできる限り少なくするためだ。研究所から出たリヴリーは人間の言葉を解さず、その種 独特の鳴き声を発するか、飼い主の言うことをオウム返しにすることしかできない。だが、その中でもピグミークローンは例外であるといえよう。早熟な種である僕らは、産み落とされる前にはもう既にニンゲンの言葉を理解することが可能だ。
これは他のリヴリー――比較的知能の高いとされるオーガやミドリメトビネなどにもなかなかできることではない。ピグミーという、悪く言えば単純極まりない種族を最高レベルの技術で改良し、洗練させたピグミークローンだからこそ持ちえた能力である。

僕は聡明なピグミークローンだから、今、自分の置かれている状況をちゃんと解っていた。
僕の入った箱が置かれたテーブルをはさんで向こうに立っている、子供とその連れの老人は、間もなく僕の家族になるひとたちだ。黒髪を短く切りそろえた少年は、リヴリーに換算するならちょうど僕と同じ年といったところ。大きなアーモンド型の目はいかにも利発そうな印象だ。坊主頭に和服をきりっと着こんだ老人の手を不安げに握っている。未来の飼い主は、わざわざ僕を迎えに、研究所まで足を運んでくれたらしい。スキャンが終わり次第、彼らは申請書類の最後に署名をして、僕を受け取るだろう。それが何よりうれしくて、僕はめいっぱい大人しくいい子に座っていた。

……いまかいまかと待っていた瞬間が、なかなか訪れないのはなぜだろうか。

体の頭から足の先までを赤い光の線がスキャンし終えたというのに、研究員さんは黙って何度も実行ボタンを連打するばかりだ。

「どう、しました?」

研究員さんは2度めか3度めくらいになるスキャンを終えると、動揺も露に、僕のケージを持ち去ろうとした。流石に戸惑ったような声色で、老人が問う。

「……手続きを行っていた個体が、実はその……」

研究所に来てまだ日の浅い彼は、まるで自分が全部の責任を背負って失敗をしてしまったみたいに大慌てをして、もっと偉い研究員さんに報告をしようと思っているようだった。状況をうまく飲み込めていない飼い主さんたちも、あんぐり口を開けて立ち会ってしまったアクシデントを持て余していた。
しかし、一番驚いたのは僕だったんじゃないかと思う。
ピグミー?
……ピグミーだって、言われたんだろうか。この僕が?ピグミークローンではなく?

「え、ええと、少々お待ち下さい。ピグミークローンを御所望でしたよね。
あっちにケージがありますから、もう一度選びなおして……」

頭をガンと打たれたような気がして、僕は動くこともできなかった。
研究員さんは、俯いてしまったた少年の肩を抱くと、優しくカウンターの奥に誘導しようとした。

「……自由研究……ピグミークローンの観察……
お前にするって、決めてたのに……もう一ページ目も、書いちゃったのに……」

ひっく、ひっくと少年の喉が鳴る。つつがない受け渡しのルーチンにすっかり慣れ切っていた研究員さんは、いきなり立ちふさがってきた心の問題を、書類手続きで解決しようと躍起になっていた。誰もがもういっそ、リヴリーのことなんか二の次であるかのようだった。

「続けてください」

決断したのは、老人だった。今居る中では一番状況を把握しかねていた彼だろうが(後に知ったが、彼は横文字は疎い)、多分一番にきっぱりとしていた。
言葉少なではあったが、水槽の上に手を掛け、研究員さんと少年との顔をそれぞれに見つめる。

「コレで構いません。この子のところに当たったのも、何かの巡り合わせでしょうから。な、正義」


その日、僕はピグミーになった。

「……我慢する」

少年が頷きながら言った言葉が、ずっと耳に残った。