ショコラ

野良が3匹。






ああ!危ない落ちちゃう拾わなきゃ…美味しそう!!!

手桶の中で、あふれんばかりに蠢く虫が目に留った瞬間もう歯止めが効かず、思考が一瞬ブラックアウトする。再び周囲が目に入るようになったのは、最後の甲虫一匹、黄色い体液の一滴まで舐め尽くした後だった。
口元をごしごし拭い、やっと彼女は自分が歩調を早めた当初の目的を思い出す。

「ショコラ。こんなところに出ちゃあ、危ないじゃないですか。」

手桶の横、島からまさに落ちようという不安定な場所でひっくり返っているショコラを、彼女はにじり寄って抱き上げる。雨上がりの黒土を転がったからだろう。ショコラのおでこのあたりに泥が付いていたので、ナプキン代わりにした袖の裏側で拭ってやると少しはマシになった。

ショコラは物も言わぬおまじない人形だ。
出会った場所は、雪の日のゴミ捨て場。火曜日のレストランの裏で、今日も今日とて水色バケツに頭を突っ込んでいたらころりと転げ出てきたのがショコラだった。
柔らかなゴムの感触は、まるで人肌のよう。かといって意思も心も持たないそれはやっぱり玩具で、どんな扱いを受けたって文句の一つも言わない。
その人形がリラに似ていると言ったのは、確かチューヅだっただろうか。
こんな愛嬌の無い人形があってたまるかとその時は思ったが、連れられて行ったヤミショップの棚で見たのは、確かに相当なんというか…醜かった。
仮にこんなニーズがあるとすれば、ニンゲンというのは気違いなんじゃないだろうか。
そう思ったのはリラだけではなかったらしく、その後になっても、おまじない人形Bが出回ったという話は聞かない。
名前はリラがつけた。こんなゴミを「おまじない人形A」と呼べば他のおまじない人形Aの名誉棄損にあたるし、かといって「ゴミ」と呼ぶんじゃあんまりだ。

「それとも主人を探しに出る気ですか。
やしの実じゃああるまいに、どこに流れついたところで拾ってもらえる訳じゃなし。
まして、お前はその顔に生まれた時点で負けですよ」

知ってますか、と羽先で小突けば、所々色の剥げたマヌケ面がくるくる揺れた。
おまじない人形はムシクイとは違う。意思もなければ動きもしない。
もちろん返事は無いけれど、この人形は何故か意思を持っているような、話しかけずに居られない奇妙なオーラを放っていた。いずれにしたって島には誰も居ないのだから、リラがどんな奇行に走ろうと咎める者は無い、と。
…やっぱり、これはショコラだ。
そう呼んでやらなければ、これはただのどこにでも捨てられている「ゴミ」でしかない。

風でも吹いていただろうか?ゆらゆらしていたショコラの姿は、大きく一度、くるりとでんぐり返りをうち、手桶のふちにこつんと額を打ち付ける。

無人の朽ちた島に、突如として現れた
様々な種類の虫で一杯に満たされた小さな手桶。
あるいは昔のギャグみたいに、天からすこーんと落ちてきたのだろうか。
そんな馬鹿な。

リラはこの手桶の持ち主を知っていたので、もっと現実的に考えた。
きっと、テトラが来ていたのだ。

その性格よろしく地上の少し上を浮遊してやってくるテトラは、足跡を残さない。
痕跡が無いから、まだ島に居るのかそれとももう行ってしまったのかはわからない…最近姿を見ていなかったのだが、この分だと元気らしい。もう一時間後に来てくれれば間に合ったのに、残念だ。
中世じゃあるまいし、餌入れに手桶だなんてぞっとするほど垢抜けていないけれど、餌箱を使わないその不自由さが、他のどのゲッコウヤグラでもダークヤグラでもなく彼である確固たる証拠だった。要するにこの世界での絶滅危惧種、自分と同じデジタルクリーチャー(ペットでは断じて無い)。

「お前も彼に会ったんですか」

似た者同士。よく似た類は、友を呼ぶ。
さて、ショコラを見て自分に似たようなことを思っただろうか。いつだってロジカルな彼が、投影したり自分を重ねたりなんて感傷的なことをしたりするのだろうか。それとも、妙なところで詩的なところがあるから、身勝手なのはニンゲンもリヴリーも一緒かと憂いたりしたのだろうか。
おまじない人形のおまじないとやらの効果はいかほどのものだろう。一般に効果は無いと言われているらしいが、こうして見つめあっていると、ふと、誰にもいったことのないような本心とかを零してしまいそうな気分になる。

「…いい加減にして欲しいものです」

テトラが本当は帰っていなくて草陰で聞いていればいいと思いながら呟く。実際、彼に限って、そんな馬鹿無意味なことはしないだろうけれども。テトラは何をしでかすつもりか、日々、運営に楯突くのに忙しい。
(さて、そうなると、私も急がなくてはなりません。)
そんなテトラが手桶を取りに来るまえに、やらなければならないことがある。
背中に背負った風呂敷を解くと、中から出てきたのはチョコでできたうさぎが2体。グリンの丘の小店の裏から、耳だかが欠けて訳ありになったのを失敬してきた代物だ。
天火があるこの島で、溶かして小さめのケーキでも焼こうと持ちかえってきたのだが、
バレンタインももうすぐという時期、料理好きのコックの前に、おあつらえ向きの手桶である。狙って置いていったなら実に卑怯だと、捻くれ者の彼女は心からの拍手を送る。
(…催促なさらなくたって差し上げますとも!)
誘惑なら乗るしかない。

「さて、お前に構っている暇もなし、と。」

ショコラを安定してよく目につく木のうろに置き、まるでニンゲンみたいな自分の台詞に身震いして世も末だとため息をつきながら、次に考えるべきは手元の材料で何を焼けるかどれだけ作れるか。エクサーだかの面々は人数が多いらしいから、めいっぱいお腹に溜まるもののほうが喜ぶかもしれない、なんて、島の淵で手をすすぎながら目途をつける。
そう、例えば頭でも打ったか頭の弱いからし色のオーガとか、あの聞かん坊のクンパの子供とか。

「…実用性なら、チョコの代わりにお前を差し上げるのも良いかもしれません
ねえ、ショコ――」

何気なく話しかけていると、自分の真横をけばけばしい物体が勢いよく転がり落ち、ぽちゃんとあっけない音を立ててデータの水面に飛びこんでいった。ショコラだ。
つい腕を伸ばしてつかまえようとするが、この辺には流れがあるらしく、にやにや笑いは見る見る遠くの水面に遠ざかって行ってしまう。
あんなに安定した洞の中、地震でも起こさない限り動くはずはないのだが。
リラは、ぽかんとして見送っていたが

「…道中ご無事をお祈りします。」

小さく肩を竦め、拵えるべきチョコのほうへと引き返して行った。