帰る場所

嫌な思いをした。
それはCORになりたての、サーバーのうんと重い頃。水月という、ずうっと野良だったハナマキの女性と結託して、彼女が惚れたというパキケを攫って逃げたのだ。銀花という名のパキケは、中性で美しく、彼女も水月を好いていた。
楽しかった。三匹でから騒ぎのように餌屋の裏を襲って、でも空気が限界まで重かったから、誰からも咎めなんか受けやしなかった。

「……水月」

名前なんてもの、リラは毛嫌いしていたが、野良の相手とくれば別だった。
リヴリーと野良のそれは、似ているようでとんでもなく違う。
野良の名前には意味がある。世界と自分を繋ぎとめる大事なもの。飼い主の忘れ形見だ。
だから野良の相手に限って、リラは名前で呼び合った。リヴリーの相手をしているときでも、そりゃあ自分も名乗らなければ不便が生じるので名乗るが、尋ねられない限りは、あくまで「通りすがりのカンボジャク」でいようと努めている。
……だって、飼い主持ちのリヴリーが死んだとして、彼らにはわあわあ涙を流してくれる相手がいくらだって居るのだ。リラひとりくらいが名前を覚えていなくたって、痛くも痒くもないだろう。
野良は”彼ら”とは違う。

「……ねぇ、水月」

聞こえたのは、銀花の声だ。
彼が島を離れて4日目。その日の戦利品を分け合って、たらふくまで食べた後でのことだ。川の字になって、薪の淵にまどろんで、リラがそのまま寝入ってしまったと彼は思ったに違いない。パチパチと爆ぜる音の合間合間に、彼は水月に縋りついて泣く。

「私、帰りたいよ……帰ろうよ」

リラは銀花を憎らしく思う。
よくもそんなことが言えたものだ、帰る場所なんてない野良リヴリーに向かって。一度手放された者に、帰る場所なんかないのだと知らしめるようなことを。しかも、自分がその”場所”になってやろうだなんて、そんな厚かましいことを!

厳しい放浪生活に飛び込むことさえ厭わず恋人と暮らそうとした水月。
お散歩気分で飼い主の元を離れた、馬鹿な銀花に、彼女の覚悟など解る筈もないだろう。水月だって、決心して銀花を連れ出した筈だ。だから、いくら愚図られても黙って彼を抱きしめるだけだった。
しかし、恋人の懇願が1週間も続くと、そんな彼女にも絆されたような色が見えてくる――




「それで、何も言わないで出てきたというのですね」

溝色の暗がりの中にそんな愚痴をぐちぐちとぶちまけていると
空気の中に漂いながら、濁った深緑のゲッコウヤグラが相槌を打った。
能面のように薄い笑みだけ湛えた顔の左半分を見るも無残に焼け爛れさせた彼は、名をテトラという。もちろん、飼い主を持たないリヴリーの同類だ。…詳しくは、もっと複雑な事情がある男らしいが、リラにはよくわからない。少なくとも、水月と銀花なんかよりはずっとずうっと彼女に近い存在だ。

「もう付き合ってられません。どうせ私が居たってお邪魔でしょうしね!
 …というわけで、外は寒すぎるので一晩泊めて下さい。ここで寝ます」

連れに無言の三行半を叩きつけて飛び出してきたリラは、目線の先に漂う彼に頷くと、せいせいしたとばかりに首を震わし、ぐるりを見まわす。
野宿にしては快適な隠れ家をバカップルに明け渡し、本日のねぐらは汚水流れるマンホールの中ときたものだ。
かといって文句ばかり言ってはいられない。一晩だって気の滅入るこの場所は、ずっと前からテトラの住処なのだから。

「…もう少し奥のほうが、暖かいですが?」

「どうも。結構です。くたくたで歩けそうにありません。それに」

親切なテトラはいつものように訊ねてきたが、リラは脱いだ靴を掲げてみせる。

「下手に動くと、落ちそうですしね」

マンホールを下るためのお粗末な梯子をくだった下には、L字型のパイプが下水の河をクロスするように渡されていて、眼下2mには下水の河がざぶざぶと音を立てて流れている。そんな上に、ふたりは居るのだ。錆びついたパイプは磨り減った靴底では到底とらえきれるものではない。

「あそこは浮かびたい代物ではありませんからね。」

テトラは波打つ汚濁を見下ろして、ケロイドで無いほうの口元でくすくすと笑いを洩らしたが、
彼の指摘はリラには若干とぼけているように思えた。
少なくとも、リラが断ったのが口実に過ぎないことくらい、頭の良い彼が見抜けない筈がない。

実際、ひとくちに下水と言ったっていろいろあるから、GLLから出た雨水を流しているものならば全く問題はないのだ。
しかし、生活排水や産業排水の類が流れる場所になると、俗に帯魔法性廃液と呼ばれる放射性の毒である。例えば、ちょうどテトラがやってきた方向は、地上でいうならネオベルミンの処理施設だからまさしくその手の流れだ。もうしばらく行けばだんだんと薄青い湯気が立ち込めだすだろう。毒は揮発して空気中のエーテルによく混じっているため、場所によっては、長くいると肺を腐らせてしまう。暖かさを恋しがる野良衆が、それでもマンホールに潜らない理由はそこにあるのだ。

……もっともテトラは平然とその通路から現れたわけであるが。

「どうしました、急に」

「いえ……」

自分を見る怪訝な表情に気づいたか、テトラはなだめるように訊ね返してきた。

そういう環境に平然と暮らしているのが、彼やその仲間だ。
テトラが誘ったように下水道の奥に行けば、彼の同僚達が住んでいる。数はどうやら10匹くらい居るらしいといて、みな一様に目が赤いということだけをリラは知っている。
なに、お客さんに悪い顔をする者は居ませんよ
と彼は言うが、そういう問題でなく。ここから彼らの住処までの間にある、あの毒の流れが問題なのであって。
毒素に耐えられる、赤い目のリヴリー達とは何なのか。
空気にリラの体質が耐えられないというのに、知っていてあえて奥に来いというのは、
断ってもいつも誘われるのは、一体どういう意味なのか。
リラが奥に行けば、そう長く持たないのは目に見えているのだ。きっと。多分。たぶん。まさか、平気なわけが…

「…何でもないです」

そういえば、以前引き渡し所で言われた言葉を思い出す。
ここがお前の帰る場所だとか。いずれ必ず、帰ってくるとか。

テトラの赤い目はいつでも狡猾さを含んで優しげだ。見下ろす彼を、リラは睨みつける。

「テトラさん、貴方、そろそろ帰らなくて良いんですか。
 相変わらずお忙しいんでしょう」

「ああ、お迎えが必要かと思ったので、油を売りに来たのですよ。
 しかし必要ないなら、そろそろ」

長い髪をふわりとなびかせ、テトラはくるりと身の丈分だけ舞い上がった。水路の天井すれすれのところから

「それではリラ、お休みなさい」

「お休みなさい。お元気で」

挨拶がじんわりとした反響を残して消えた後、テトラは何を考えたか、ちらりとだけ下を振り返って、底知れない水路の奥の闇に消えた。ひとり残ったリラは息を詰めてそのシルエットを見送った後、少しほっとして冷たいパイプの上に小さく体を丸める。ここは彼らの住処からはだいぶ離れているから、仲間と鉢合わせることもないだろう。

「……帰れ帰れって、皆して」

テトラを訪れるのは、病人が痛み止めに頼るようなものだ。ニンゲンに仕込まれた愛玩動物ばかりの世の中にうんざりしても、彼はそうでないところが良い。
寒くて息を吸い込めば、鼻の曲がりそうな酷い臭気。心なしか、引き渡し所の奥で嗅いだような懐かしさを覚えるのは、気が滅入っているからだろうか。

いずれにせよ、マンホールの奥はリラの帰るべき場所ではない。